「友達になんて戻れない。そもそも私たち、もともと友達じゃなかったしね」。私はついさっきまで恋人だった、この世で1番好きな男にそう告げた。彼の顔は見れなかった。

別れたいと言ったのは彼の方だった。ここ数ヶ月、彼の気持ちが冷めてきているのは感じていた。だから辛さはあれど驚きはしなかった。けれど別れても友達でいたいという彼に対して、この回答が私の精一杯の強がりで、私なりの一線の引き方だった。今後ずるずると関係を続けていれば、きっと一生この男を好きなままだ。この思いを断ち切るにはそれくらいの覚悟が必要だった。私の思いも彼との関係も、この方法でしか止まれなかった。

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私と彼は会社の同期で、いわゆる社内恋愛というやつだった。新卒で入社して研修を共にし、同じ部に配属された。頭の回転が速く物腰柔らかで、人たらしなのにどこか孤独を好む彼に対して、私がただの同期以上の感情を抱くのにそう時間はかからなかった。2人とも音楽や映画が好きで、その話でよく盛り上がった。誰々の新曲がいいだとか、おすすめのB級映画だとか、そんな話題でずっと話していられた。

片思いをしていた頃、飲み会で話が弾んだ私たちは帰り道に2人でカフェに寄った。「この曲がずっと好きなんだよね」。向かいに座っている彼が左耳のイヤホンを私に渡す。耳に差し込むとBIGMAMAの「最後の一口」が流れた。その歌詞の情景に今の私たちの姿が重なる。曲が終わると彼は伏目がちに笑いながら、歌詞と同じように2人で半分こして食べていたケーキの最後の一口を私に差し出した。

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紆余曲折を経て、私たちは周りに内緒で付き合うことになった。今までの人生の不幸など全て帳消しになるような幸せな時間だった。一緒に行ったライブハウスも、サブスクでは配信もされていないようなB級映画をTSUTAYAで借りて見たことも、夜の公園で落ちていたボールでサッカーをしたことも、全部全部覚えている。隣にある低い声が私の安定剤だった。どんな激務もそれがあれば乗り越えることができた。このまま結婚するものだとばかり思っていた。その彼に、なんで私はこんな絶縁宣言のようなことを言わなければならないのか。私にとって彼は同期で、好きな人で、恋人だった。友達だった期間なんて1秒もなかった。格好良くもない。綺麗でもない。傍から見たら赤点レベルの最後だろう。そう告げたことを後悔しなかったわけではない。言いたくて言った台詞ではなかったが、紛れもない本心だった。

彼に会えるのが嬉しくて仕方がなかった職場は、大層行きにくい場所に変わった。けれど別れたことが理由で辞めるのは違うと思い、今まで以上に必死に働いた。彼が毎朝昼食のサラダを買っていたコンビニは決して使わなかったし、同じ時間に駅に着くよう少し早めに乗っていた電車の時間も変えた。社内ではすれ違わないように避け続け、同じ飲み会には絶対に参加しなかった。徹底的に距離をとることで、私は私を守っていた。不意に接触してしまい、まだ好きだと思い知らされることが怖かったのだ。

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そんな生活をして2年半が過ぎた。

ある朝いつも通りパソコンを開くと、新卒採用向けのインターンシップの講師をしてほしいとメールが来ていた。いくつかの候補日と担当社員が羅列されている。どうやら2人組で行うらしい。私の名前の隣には、避け続けている元恋人の名前があった。

胸中は複雑だった。彼とはあの日以来まともな会話をしていない。何も知らない人事からは「社員の仲の良さがうちの会社のウリなので和やかにお願いします」とまで言われている。どう考えても人選ミスだ。うまく笑えるだろうか。ちゃんと説明できるだろうか。何より、心を乱されずにいられるだろうか。インターンシップ当日、そんな不安をかき消すように、7センチのヒールを履いて会社に向かった。先に着いて準備をしている私の隣に、後から入ってきた彼が腰を下ろす。彼の左手の薬指に指輪がないことに内心ほっとした。「今日はよろしくね」。前日から練習したおかげか、自分で思っていたよりも普通の声が出たことに安堵した。

インターンシップは順調に進んだ。相変わらず彼の仕事ぶりは惚れ惚れするほどだったし、私も人事のオーダー通り彼と談笑を交えつつ和やかに進行した。懐かしい彼の左隣は、悔しいくらいにしっくりきた。スケジュールも半分が過ぎた頃の休憩中に、彼はカップのドリンクを買って戻ってきた。「何飲んでるの?」と私が尋ねると、「レモネード。一口飲む?」と言いながら、彼はあの時と同じように、飲みかけのレモネードを私に差し出した。私はカップを受け取りレモネードを口にした。その胸中は驚くほど穏やかなままだった。それと同時に2年半という時の流れと、自分の気持ちをまざまざと感じた。大丈夫だ。私はちゃんと前に進めていた。私は彼の顔を見て、その日1番の自然な笑顔で「ありがとう」とカップを返した。