私はコーヒーがあまり好きではない。少なくとも、自分から積極的に飲もうとはしない。特にブラックは論外だ(特別に眠気覚ましが欲しい時でない限り)。砂糖とミルクを加えたらまあ飲んでもいいかなくらいの気持ちだが、どうせ人工甘味料を摂取するなら、タピオカミルクティーを飲みたいのが本音だ。

そんな私にも、少なくとも2日に1度はコーヒーを飲んでいた時期がある。それもブラックで。

でも、それは私の意思ではなかった。

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私の大学の研究室には、コーヒーマシンといくつかのマグカップが置いてあった。おそらく自由に使っても咎められることはなかっただろうが、自由に使って良いと言われたこともないし、仮に言われていたとしても私には関係ないものとして、どのみち使うことはなかっただろう。

とにかく自由な研究室だった。あまりに自由すぎて、卒論や修論シーズンを除き、頻繁に研究室に滞在しているのは私くらいだった。

変わった研究室には変わった教授が欠かせない。私の教授はあらゆる面で常軌を逸した変人で、良い意味で常識知らずだった。誰も頼まずとも、当たり前のように教授自らコーヒーを淹れ、学生や来客に振る舞うのは日常的な光景だった。数々のぶっ飛んだエピソードを持つ教授だったが、人間的な温かみを持つという意味では、堅物揃いの教授陣の中で実は一番まともな人間ではないだろうか、と教授のその姿を見ながら私は密かに考えていた。

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教授からしたら、自分の学生が研究室にて作業しているだけでも嬉しいことだったのかもしれない。私が自分のデスクでパソコンと向き合っていると、はにかみながら、時には「どうぞ」などと小声で呟きながら、淹れたてのブラックコーヒーを横に置いてくださっていた。それを「結構です」と無下にするわけにもいかず、「ミルクください」とねだるのもなんだか引け目を感じて、結局ブラックのままありがたくいただくのがいつもの流れだった。もちろん、飲み終わった後にはマグカップを自分で洗いに給湯室まで行く。その手間が生じるくらいならコーヒー要らないんだけどな、と思いつつも、それを口に出すことはできなかった。

結局ブラックコーヒーの美味しさはわからないままだったが、気付いた時には、コーヒーはその研究室にはなくてはならない存在のようになっていた。

学部卒業式の日に、1人の提案により、研究室同期と共同で「ちょっといい」コーヒー詰め合わせを教授にプレゼントした。それを贈られた時の教授の少年のような笑顔は今でも忘れられない。

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同期は皆就職する中、私は修士課程まで残った。大学院生になっても、教授によるブラックコーヒーのおもてなしは続いた。

残念ながら、大学院に入学してすぐにその選択を悔やむほど、私は大学院生活に馴染めずにいた。研究内容にも研究室にも、結局あまり思い入れを持てずにいた。 

それでも、幸いにもと言うべきか、教授のブラックコーヒーは大体いつも私の横にいた。自己嫌悪に陥った時も、絶望を感じた時も、気が晴れない時も、ほんの少し前進を感じた時も、大抵そこにいた。言葉でのコミュニケーションが苦手な教授なりの、私へのエールだったのかもしれない。

学生時代の数年間飲み続けたコーヒーの名前もメーカーも知ることなく、私は社会人になった。ブラックコーヒーは飲んだとしても年に片手で収まるほどになったし、ましてや誰かに淹れてもらうことなど皆無になった。

研究データと睨めっこしながら飲み続けたブラックコーヒーは、今思い出してみても好きと言える味ではなかった。でも、研究室で味わっていた苦しみは、ブラックコーヒーの苦みでいくらか打ち消してもらっていたのかもしれないとも思える。

もう一度飲んでみたいような、飲まなくていいような、そんな研究室のコーヒーに当時の私はだいぶ救われていたのだろう。