物心ついたときからずっとずっと、待っていたのかもしれない。

褒められること。期待されること。必要とされること。悪い状況が良い方向へと変わってくれること。

中学の英語の授業で受動態・能動態を習ったときは、「きっと私は常に受動的なんだろうな」と、肝心の授業とは全く関係ないことをぼんやり考えていた。その思考の走り方もまたどこか他人事で、自分自身を外野から客観的に眺めているような感覚を私は昔から持っていた。

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ただ、それは自分という人間を冷静に分析できているのとはまた訳が違う。残念ながら、私はそんなに賢くない。

幼少〜思春期は母からの抑圧感が常に薄っすらと身体にまとわりついていて、でもそれを振り払うことはできなかった。何かがおかしいと体内で違和感がくすぶっていても、母の前では「Yes」または「はい」しか言えなかった。母が定めた水準に常に達していることが絶対条件で、それを下回ることなんて許されないと当時は当たり前のように思っていた。

人の目を執拗に気にするようになってしまったことを、1から10まで家庭環境のせいにするつもりはない。それはあくまで数ある要素のうちのひとつでしかないと思っている。とうに過ぎ去った子ども時代に責任のすべてをなすりつけるのは、あまりにも身勝手だ。自分の話の場合においては、そう感じる。

能動性だけじゃない。主体性や積極性も、同じように欠落していると思う。

数年後には三十路を迎えるというのに、この年齢になってもなお、あらゆる場面で自分の薄っぺらさに絶望する。年齢なんて、ただの記号でしかないのだと年々思うようになった。

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けれども社会一般的にはその記号こそが分かりやすい指標でもあり、判断の材料として使われる。その度に、年齢に見合っているとはいえない自分の未熟さを激しく恥じたくなる。

自分が何を考えているのか分からない。
自分が何を欲しているのか分からない。
自分が何を言いたいのか分からない。

度々、そんなくらい感情に陥る。頭の中で浮遊している全てのものの輪郭が曖昧になり、どろどろと溶け合って、収拾がつかなくなる。
少し前までは、そんな混沌状態にずいぶん振り回された。

ただ、年齢なんてただの記号だと書いたばかりだが、それでも積み重ねてきた時間は確かに存在していて、そのなかで自分の感情のコントロールの仕方も何となく掴めるようにはなってきている。

いや、「コントロール」は少々格好つけ過ぎかもしれない。繰り返すようだが、私はそんなに賢くない。

「放っておく」。結局の所、これに限る。鬱屈とした気持ちを無理に打開しようとしても、どうにもならないときだってある。

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だから最近の私は、脳内が混沌としてきたら一旦全ての作業を中断し、強制的に眠りにつくようにしている。もし泣きたい感情に襲われていたら、まずは目に溜まった水を全部出すようにもしている。

そうすると、心に落ちていた影の勢いが少しはおとなしくなってくれる。目が覚めて時計を見たとき「ヤバいな寝過ぎたな」と思ったら、意外に身体が活発化する。洗濯物取り込まなきゃ、とか、とりあえず溜まったお皿洗おう、とか。日常のリズムに、無理なく戻ることができる。

何だか騙し騙しみたいだなとは思いながらも、そうやって私は何とか日々をやりくりしている。

受け身な自分は、本当に嫌いだ。仕事においても、プライベートにおいても、自分に対して失望する場面がしょっちゅうある。自分の欠落を人からさりげなく指摘されたときは、「何で私はいつまで経ってもこうなんだろう」とまた自己嫌悪。そんなことの繰り返しだ。

受け手だけじゃなく、攻め手にだってなりたい。
いつまでも待つのではなく、自分から仕掛けていきたい。

そんな風に前を向く強い自分も、心の中には確かにいる。強い自分は弱い自分に対していつも中指を立てているけれど、今のところ表立って息をしているのは弱い自分。そんな現象が、私の身体において起きているような気がする。

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自分の弱さが、自信のなさが、本当に憎くて憎くてたまらない。「そこに居られると邪魔だからどいてくれない?」と、強い口調で言いながら遠くに蹴飛ばしてやりたい気持ちだ。

とはいえ、弱さも含めて結局自分。そう簡単には変わらない部分もたくさんある。
それでも毎日は容赦なく続いていくから、自分は自分のままで今日も明日も歩いていくしかない。弱くても、道を歩くだけの脚力ならどうにかある。

もちろん、「いける」と思ったら思い切り走りたい。すでにあるルートを通るだけじゃなくて、雑草が伸び放題の場所を整地して新たな道を作ったりもしてみたい。

丁寧に丁寧に耳を澄まさないと、私は自分の心の声を拾うことができない。頻繁に、外から流れ込んでくるたくさんの雑音にかき消されそうになる。そうしてすぐに自分を見失う。

それでも、口は真一文字に結ばれているわけじゃない。唇の隙間からは、心の声を縁取りした言葉が漏れ出している。強さの“核”が、そこにあると信じたい。

核は、言い換えれば種だ。そしてそれを育てていくのは、他の誰でもない私自身。
ずっと待っているだけでは、きっと、種は芽吹かない。