「これはね、俺を抱いた女しか見れないの」
薄暗く赤い照明と聞き覚えのあるロックが流れるバーの中、人より少し耳の悪い私はそれをなんとか聞き取った。
見上げるほど背の高いその人の背中には、タトゥーがあるらしい。「へぇ。そうなんだ」と声が出た。何なんだ一体、この男は。と思いつつ、私は久しぶりの煙草に火を付けた。
音楽に晒され続けた耳がヒリヒリとする。気付けば、日付が変わろうとしていた。
「綺麗な花が咲いてたよとか。そんなのでいいからさ、連絡してよ」彼は連絡先を渡して目を細めながら笑った。
こんな所で出会った関係だ、きっと何も生まれないだろう。そう思いながら私は自分の街に帰った。
◎ ◎
私はいつも通りの生活をしながらも、彼との連絡をなんとなく続けていた。
恋はしたくなかった。長年一緒にいた恋人は、職場の女性と関係を持ってあっさりと私の前から居なくなった。「ずっと大好きだからね」「絶対離さないよ」そんな言葉がなかったことになってしまう位なら、もう誰も愛したくないと思っていた。
あの夜から数週間が経ち、いつの間にか彼は私の日常の中にいた。仕事の合間に送られてくるおかしなLINEにクスリとしたり、夜になれば電話を繋いで、お互いの環境や恋愛観、物事をどう感じるかを話して聞かせ合った。
2人にしかわからない合言葉が生まれ、いつしか2人だけの名前で呼び合うようになった。この人にもいつか愛する女性が現れるんだろうなと、私は彼のいない日々を考えては胸が締め付けられるようになっていた。
「私はただ、たわいもない会話をしたいだけの存在なの?」
何かを決意していたわけじゃない。いつもの電話の中で、そんな言葉が口からこぼれてしまった。
苦しかった。人を好きになることが怖かった私は、いつの間にか恋をしていた。
彼にまた会いたくて自分に似合う口紅を探した。彼に笑ってほしくて、彼が喜んでくれることが、自分の喜びになっていた。この日々を失ってしまうかもしれない。それでも私は問わずにはいられなかった。
「恋人になってくれたらいいなと思ってる」
少しの沈黙のあとそう聞こえてきた言葉のひとつひとつ、全てが愛しかった。
行き場のない、不思議な感情で胸がいっぱいになった私は、思わず涙をこぼした。人を愛する怖さを乗り越えてでも、私は彼のそばに居たかった。
◎ ◎
恋人になった私たちは、今まで以上にやり取りをした。
彼も恋をする上での痛みは私と同じくらいか、それ以上に知っていた。お互い愛する人を失う怖さがあったからこそ、優しくなれていた。なかなか会うことができないまま時間が過ぎ、カレンダーを眺めながら待ちきれないねと、毎日のように笑っていた。
そして、私たちは結ばれた。
この気持ちが届いているのか。この選択は正しかったのか。同じ想いなのか。触れて、確かめたかった。
一瞬のようで長い時間、彼の腕の中で考えた。私は幸せだった。頭の上からキスと一緒に落ちてくる言葉は、ずっと胸の中にあった不安を打ち消すようなものばかりだった。
「これはね、俺を抱いた女しか見れないの」
その言葉を思い出した。おかしな事を言う人だなとずっと思っていた。そんな人は、私のかけがえのない存在になった。
人生、何があるかわからないな。またひとつ歳を重ねたばかりの私は、彼を起こさないように静かに笑った。
◎ ◎
眠る彼の背中には、一輪の薔薇があった。
私はきっとこの光景を、一生忘れることはない。
どこを探しても見つからない綺麗な花は、ここに咲いていた。
それを伝えるのは、もう少し先のことになりそうだなと思いながら、私はまた涙をこぼした。