東京都江東区清澄白河。

スカイツリーのお膝元に位置するこの街は、清澄庭園をはじめとする昔ながらの下町文化と、おしゃれで小さなカフェが混在する静かな街。静岡から上京した元彼が大学時代ここに住んでいて、私もよく遊びに行っていた。

私と同棲するために元彼が引っ越して3年が経った夏、久しぶりに清澄白河を訪れた。
特にこれといった動機はない。お台場での仕事帰り、気晴らしに散歩しようとGoogleマップを開いたら、懐かしい地名がふと目に飛び込んできたのだ。

歩けば2時間ほどかかるが、気づいたら足がそこに向かっている。東京湾を眺めながら歩みを進めて、たまに立ち止まってスカイツリーと荒川の写真を撮っていたら、あっという間に着いた。

久しぶりに訪れたその街は、変わらずコーヒーの匂いがした。

◎          ◎

元彼が住んでいた場所は駅から徒歩5分ほど。その道のりはいつも、カフェから漂うコーヒーの匂いがした。
コーヒーの匂いがする街に住んでいるなんて、おしゃれすぎる。そのうえ2路線使える利便性と、閑静な暮らしを兼ね備える清澄白河は、文句なしでいい場所だった。

1度、元彼に「家から出たらいつもコーヒーの匂いがするなんていいね」と言ったことがある。けれどそのときは「そうでもないよ」と即答されてしまった。
毎日この匂いで鬱陶しいのか、あるいは慣れてしまったのか。いつも優しく、自分の発言すら注意深くする元彼が、そのときだけ突き放すような言い方とことばを選んだ。何だかそれが少し悲しくて、今でもよく覚えている。

大学4年生の6月。私は就活の最終面接を終えて、元彼と清澄白河のカフェを訪れた。
倉庫をリノベーションしたそのカフェは、駅から元彼の家までの通り道にあるが、いつも外席で待っている人がいるほど人気のお店。「そこまで人気なら」と、かねてから訪れたいと思っていた。

私はどのカフェに行っても大抵カプチーノを頼む。元彼はちゃんと毎回その店のおすすめを聞いてそれ通り頼むのだが、私はいつも冒険しない。ちょっと低めなふかふかソファに腰掛けてカプチーノを飲みはじめたころ、1本の電話が入った。
「……受かった」
それは、最終面接を終えた企業の、採用を告げる電話だった。たった今、私の就活が終わったのだ。
「えええ!おめでとう!!」元彼は自分のことのように喜んでくれた。手の震えが止まらない。もう、頭が真っ白だった。これまでの苦労が報われた。

喜びが落ち着いたころ、カプチーノはすっかり冷えていた。

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「そろそろ引っ越すから、カフェ行っておきたいね」
社会人1年目が終わろうとしていた2月、元彼がこう提案してくれた。3月から同棲することが決まり、契約期間を待たずに清澄白河の家を引き払うことが決まっていたのだ。

訪れたのは、男性1人が切り盛りする4席ほどの小さなカフェ。
店主の趣味である飛行機がモチーフのそのカフェには、模型や雑誌が飾られていた。ここでも私はカプチーノを頼み、元彼はおすすめのコーヒーを頼む。
カプチーノの上には、飛行機が描かれていた。

この街とももうすぐお別れ。
「もっといろいろなカフェに行っておけばよかったね」と元彼は言った。別れを間近に、この場所の良さを再確認したのだろう。もう、コーヒーの匂いについて「そうでもないよ」と突き放す元彼はいなかった。
そういえば、最後に清澄白河を訪れたときは、コーヒーの匂いを気にする余裕がなかった。
レンタカーで借りたハイエースをアパートの下に付けて、この日のために呼びつけた後輩と3人で急いで荷物を詰め込む。その必死さといったら、夜逃げ同然だった。

この街にまだ、ちゃんとお別れを言えていない。3年前の夏に久しぶりに訪れたときも、懐かしさに浸るだけだった。
またあのコーヒーの匂いのする街に行ってみようか。今度はちゃんと、あのとき行ったカフェにも立ち寄って。