私にとって家事とは「お手伝い」というものではなく、「私がやらなくてはならないこと」と小学生の頃から認識していた。5人家族、3人兄妹の末っ子。母は物心つく前に他界しており、父と父方の祖母に育てられた私たち兄妹は、周りの同い年に比べて自立心が強かったように思える。13個上の兄と10個上の姉、そして末の私。

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私が小学校中学年になる頃には、兄も姉も家にいる時間はとても少なくなっていた。仕事で遅くに帰ってくる父、農作業が忙しく朝方から畑に出ている祖母。学校に行っている時間を除けば、家に1人でいる時間がとても長く感じた学生時代であった。

学校から帰れば洗濯物を室内に入れて畳み、各々の箪笥へとしまっていく。それが終われば夕食の支度。とはいっても、火を使うことは祖母に厳しく言われていたので、あらかじめ祖母が作っていた品物を電子レンジで温めてテーブルに出すのが主な作業だった。一通りの工程を終えた頃、祖母が畑から帰ってくる。

土で汚れた衣服を払いながら、「おぉ、今日もありがとう」と、笑顔を向けてくれる祖母。他の家がどんな環境かは知らないが、我が家にとってはこれが当たり前だった。祖母と2人で夕食をとっていると、兄と姉がそれぞれ帰宅し、テーブルを囲んで食事を始める。タイミングは違えど、食卓をみんなで囲むこの時間が私は好きだった。他の子達に比べて遊ぶ時間が少なかろうが、習い事に行く余裕が無かろうが、これが我が家の在るべき姿なのだと信じていたからだ。

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状況が一変したのは、私が高校2年生の時。その日はちょうどクリスマスだった。身体の調子が良くないと病院に行った祖母から告げられた余命宣告。残り半年の命という限られた時間をつきつけられ、「お前がしっかりしなきゃいけないんだぞ」と涙目で祖母に訴えられたあの日。1番辛いであろう祖母の目の前で泣くのを堪え、1人になった途端に涙が滝のように溢れ出した。

これからどうするべきなのか、祖母がいなくなったらこの家はどうなるのか、母に代わりこの家を支え続けた祖母。家事の全てを担っていた祖母の存在はとても大きく、私にとって「家事の師匠」でもあった。

その存在が半年後にこの世からいなくなってしまうなんて、想像を絶するほどの苦痛であり、自身にとっての試練でもあった。「とにかく、今は自分にできることから始めよう」そう思い立ち、祖母に家事の全てを改めて教えてもらうことにした。

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祖母がよく作ってくれていた煮物の味付け、家の畑から採れる野菜の種類、ご近所さんとの付き合い方など、隅から隅まで祖母に教えてもらった。今まで当たり前のように触れていた日常が、すぐ目の前で消えかけている。消すわけにはいかない。私が引き継いでいかなければならない、と強く思いながら。

それからの日々は、ひたすら学校の勉強と家事との両立だった。朝起きてすぐに家族全員分の洗濯物を干し、祖母に朝食を作る。その後いつも通りに通学し、帰りのバスの中ではその日の夕飯の献立を考えながら家事の工程を確認する毎日。

アルバイトをする余裕も、同級と遊びに行く時間も皆無だった。そんな中でも心折れずに家事を続けられたのは、「お前が作る味噌汁は本当に美味しいね」と、いつも祖母が褒めてくれたからだ。祖母の笑顔と命が、私にとってかけがえのない大切な大切な生き甲斐であり、家事に対するやり甲斐だったのだ。

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余命宣告されてからちょうど半年後に祖母は他界してしまったが、あの時祖母に教えてもらった家事の工程は、28歳になった今の私の中で生き続けている。私が作る手料理で笑顔になってくれる人がこの世にいる。それだけで、私はまた家事を続けられるのだ。当たり前だった家事が、私にとってかけがえのないものになったあの日から、ずっと。