私はコーヒーが飲めない。家の近所の喫茶店でサンドイッチを食べている時に隣から深みのある苦い香りがした。咄嗟に大人の味だと思った。いつか私もあの味に幸せを憶えるのかと思いながら甘ったるいココアに息を吹きかけては隣の人をチラ見していた。

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あまりにも私が隣のテーブルを凝視するものだから母が大人になったら飲めるようになるよと声をかけてくれた。そんな苦いブラックコーヒーを飲んでる隣の席のおばさんが、幼い私に大人になったらこの苦味が最高なんだよと教えてくれた。

あれから十五年経つがコーヒーが美味しいとは思えない。ミルクや砂糖を足しても苦味は消えずさらに私をコーヒー嫌いへと追いやる。飲みやすくするためにココアを入れるなんて馬鹿馬鹿しい。つまり、正確には私はコーヒーを飲まないのだ。

例えば私が学生だった時に私の第一志望の学校を馬鹿にしていた周りの人間や入社後に理不尽なことを朝から晩までくどくどと伝えてくる上司もコーヒーが大好きだ。いつも湯気を眺めたり自分の顔をカップに注がれているコーヒーに映してはこちらに文句を言うのだ。私は心の中で彼らを『大人』と呼んでいる。

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『大人』は年齢に関係なく自分のことしか考えられない人や他人の気持ちを汲み取ったりしない人のことである。『大人』はコーヒーが好きだ。だから私は彼らと同じ人間にはなりたくない。そもそも苦味とは人間が本能で自分の命を守るために発達した味覚である。それを踏まえてもわざわざ自分から命の危険を冒してまで飲みたいとは思わないし、何より苦味を求める人生なんて御免だ。

つまり、私は『大人』になるのが嫌でコーヒーを飲まないし『大人』にならないためにコーヒーを飲まないのだ。もちろん人は皆平等に年を重ねる。それは逆らうことのできない事実だ。だから人はいつか大人になる。

でもできるならどんな大人になるかは自分で選びたい。幸せや夢を追いかけるならまだしも苦味を追うのは『大人』の世界に疲れているか『大人』の世界の創造者だろう。だから私は『大人』は嫌いだしなりたくない。

だが、私の中で事件が起こった。小学生の時から仲良くしている子と久しぶりにカフェでお茶をしている時だった。思い出話に花を咲かせながら何を頼もうかとメニュー評価を見ていたら彼女がコーヒーを指差して「美味しそう」と呟いたのだ。

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私は自分の耳を疑った。学校の休憩時間にドッジボールをしていて相手からボールを奪えないと泣いていた子が「最近コーヒーが美味しくてね」と言うのだ。だが聞き間違いであって欲しいという願いは届かず店員さんが運んできてくれたのは真っ白なカップには似つかない真っ黒な液体だった。もれなく独特の苦みのある香りを漂わせて。

彼女がソーサーに手を添えようとするので本当に飲んでしまうのかと思いこちらはハラハラしていたが、そんなことはつゆ知らず彼女は当たり前だとばかりにコーヒーで喉を潤し仕事の上司がどうだの最近の彼氏はこうだのとつらつらと話し始めてしまった。彼女のカップについた赤いリップの跡とコーヒーの水面の隙間を見て泣きたくなった。彼女は私の目の前で『大人』になってしまった。

私はどこかで彼女だけは『大人』にならないと期待していたことに初めて気づいた。もしかしたらおばさんもこんな感じで少しずつコーヒーの香りに蝕まれて『大人』になったのかもしれない。私の記憶の中の小学生の彼女と目の前の彼女は結びつかないのにおばさんと彼女が少しずつ重なっていくのが見ていられなかった。

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そこから彼女とどんな話をしていたかはあまり覚えていない。もしかしたら彼女がコーヒーにミルクを入れていたらこんな気持ちになっていなかったかもしれない。でも彼女の口から「最近ブラックコーヒーが美味しくてね」と聞こえた時から答えは分かっていたはずだ。

それでも私の中で「でも」と「もしかしたら」だけがこだましては消えてゆく。その香りを嗅がまいと避けながら私は絶対に『大人』にはならないと改めて誓った日だった。

と、ここまで昨年の今頃の私の話を読んでいただいきましたが皆様の片手には何がありますでしょうか。私の片手には本日3杯目のカフェモカがあります。美味しいかと聞かれると答えにくいので聞かないで下さいね。