予定のない休日の朝、目を覚ます。泥のように疲れた体を起こしてまでやりたいことなんて思い浮かばない。枕元で充電コードに繋がれているスマートフォンを掴み、寝転がったまま2~3個のアプリを行き来していたら、知らぬ間に1時間が経っていた。

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自分が欲しいものだけが欲しい。なるべく楽に手に入れたい。そう上手くはいかないことも分かっている。本当に欲しいと思うものほど苦労しないと手に入らない。こんな風に指先を滑らせるだけで手に入るものが、自分が本当に欲しいわけがないんだ。そうやって自分を奮い立たせ、布団から起き上がる。仕事着だけは洗濯しておかないと、明日からの仕事に支障が出る。とりあえず朝ごはんを食べよう。

片手鍋に水を汲み、火にかける。風呂場へ行って洗顔とハミガキを済ませ、キッチンに戻ってくる。きゅうすとマグカップを用意し、シンク下の収納からドリップコーヒーを1個取り出す。その間にしゅんしゅんとお湯が沸き上がる。

片手鍋からきゅうすにお湯を注ぐ。「お湯の温度は90℃くらいがいい」「お湯は細くゆっくり注ぐといい」、どこかで聞きかじったおいしいコーヒーのいれ方を、私は忠実に守っている。家にあるものでと知恵を絞った結果、きゅうすがちょうどいいことに気付いた。

本当は注ぎ口が細いヤカンがあれば一番いいのだけれど、ヤカンってやけに場所を取る形をしてる。片付けが苦手なんだからやめておこう。あの狭いキッチンに置く場所も無いし。

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会社が借り上げた1Kのアパート。引っ越す1週間ほど前、住所と間取りが書かれたペライチの資料が渡された。外観と内装の写真も載っていたけれど白黒印刷でよく分からなかった。私に物件の決定権は一切なく、当然ながら内見に行くこともない。間取り図を確認して、とりあえず風呂とトイレが別であることに安堵した。でも実際の部屋の様子は行ってみないと分からない。

1Kとは「居室とキッチンがある物件」を意味する。だから居室と「キッチン用の部屋」の2部屋があるのだろうと勝手にイメージしていた。

実際にはキッチン用の部屋があるのではなく、居室と玄関を繋ぐ廊下の途中に、IHコンロとシンクが取り付けられた箇所があるだけだった。キッチンの前に立ち、振り返るとすぐトイレがある。トイレの前で料理をするのってなんかやっぱりイヤだ。引っ越しに慣れていない私には、間取り図を見ただけでは分からなかった。

でも会社からの家賃補助も出ているし、文句ばかり言ってはいられない。社員寮担当の女性社員と、電話で話した時のことが思い浮かぶ。親しみやすくて優しい話し方だった。いろいろな制限がある中で、親身になって物件を探してくれているのだろう。駅近で築年数も新しいと考えれば悪くない物件なのかも。初めての一人暮らし。なんとか知恵と工夫で上手くやって、自分らしい部屋にしていこうとワクワクしていた。

でも、自分で不動産屋さんに行って選ぶとしたら、この部屋は選ばないだろうな。この会社を選んだのは私だけれど、私は住む部屋を選ぶことまで放棄したのだっけ。

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マグカップにコーヒーのパックを広げて引っ掛けたら、まずは豆を蒸らすため、きゅうすからお湯を少しだけ注ぐ。全体にお湯が行き渡ったらそのまま30秒置く。待つ間に冷凍庫から食パンを取り出し、トースターに突っ込む。これで大体10秒。

キッチンのすぐ隣に洗濯機があるので、残りの20秒で洗濯機のスイッチを入れ、洗剤と柔軟剤を入れる。キッチンに戻ると、柔軟剤の香りに混じって、ふわっとコーヒーの香りが立ち上ってくる。

再びきゅうすを手に取り、深呼吸をして背筋を伸ばす。左手に神経を集中させて、絶妙な角度を保ってお湯を注ぐ。利き手は右手だけれど、これに関してはなぜだか左手の方が得意だ。

お湯はなるべく細く、途切れさせないように。回しかけずにまっすぐ、優しく。洗濯機が布と水をかき回す音が、ヒーリング音楽のように聞こえてくる。

きゅうすに入ったお湯を全部注ぐと、ちょうどカップのフチまで来る量になっている。このシンデレラフィットも気に入っている。暗いキッチンに立ったまま1口、また1口とコーヒーを飲む。おいしい。

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そのうち「そういえばティッシュが切れそうなんだっけ」「こないだ買った新しい服を着て出かけようかな」「じゃあせっかくだし遠出して、気になっていたお店でランチを食べよう」と、やりたいことがつらつら思い浮かぶ。

特別高いコーヒーを買っているわけでもないし、味の違いにそれほど詳しいわけでもない。保存場所だって絶対にシンク下じゃない方がいいだろう。コーヒーをもっとおいしくいれるための道具も世の中にはたくさんある。

でも私にとってはこれが最高の1杯だ。精一杯手を伸ばして、心地よく背伸びしたところにあるコーヒーの味。

「チーン」と鋭い音がして、食パンが焼き上がる。トースターからお皿にパンを移して、コーヒーと一緒にリビングに運ぶ。スマートフォンで動画を見ながらトーストとコーヒーを食べる。食べ終わるころにちょうど洗濯が終わるから、すぐに干さなきゃと立ち上がる。先週洗濯をしたとき、ベランダから取り込んだまま畳んでいなくて、服が山のように床に散らばっている。まずはハンガーをかき集めないと。

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洗濯乾燥機があればいいなと思うし、食器洗浄機も欲しい。もっと広いクローゼットが欲しいし、ベランダで観葉植物を育てるゆとりも欲しい。もう少し部屋が広ければ、窓ぎわに勉強机とイスを置いて読書がしたい。レコードプレイヤーを買って、背の低い本棚の上に置きたい。

窮屈な生活をする今の私には届かない暮らし。お金やスペースだけが理由ではない。時間や気持ちの余裕も足りない。ずぼらな性格も直したい。理想の暮らしをいつか、手に入れることができるのだろうか。背伸びをして味わうコーヒーが、その「いつか」を信じる力をくれる。