私はたぶん、ずっと悲しみを待っている。
数年前に、大好きだった方が亡くなった。突然のできごとだった。私はそのことがなかなか受け入れることができずに、まだ彼女が生きているのではないかと思っている。どうして、こんな風に思うのかというと、もしかしたらちゃんと「悲しむ」ことができていないからかもしれない。
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俳優である彼女が亡くなったことは突然すぎて、ニュースで大々的に報道されたが全く現実味がなかった。呆然とするとはこういうことを言うのかと変に冷静な自分さえいた。だから、彼女のことを思って涙を流したり、悲しいと言葉にしたり、そういうことができなかった。
亡くなった直後、それから葬儀が終わったあと、どのタイミングでも悲しみの涙を流せなかった私は、どこで悲しみの涙を流せばいいのかと迷子になってしまった。自分がとても冷たい人間のようにすら思った。
そういえば、私は2つの感情と付き合うのが苦手だった。一つは怒り、そしてもう一つは悲しみだ。特に、誰かの人生が終わったときの悲しみは自分の中でどう取り扱えばいいかわからなかった。
勘違いをしないでほしいのだが、人が亡くなったことを無視しているわけではない。全く悲しくないわけでもない。寂しいし辛いし、これからのことを考えると苦しいと思う。けど、悲しいと声を出して涙を流したり、同士と共に感情を分け合ったりするのが苦手なのだ。
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一番近い人が亡くなったのは、祖父だった。
このときも、孫たちの中で結果として唯一涙を流せずにいて、葬儀中どこか気持ちが迷子になっていたのを覚えている。あのとき、悲しいといって自分の感情と向き合うことができたら、同じ葬儀場にいた人たちと共に悲しみを分け合い、慰め合うことができたのかもしれない。けれど私にはそれができなかった。それをするにはまだ時間が必要だったからだ。
数年、いや、十年近く経ってやっとようやく祖父の死を受け入れることができるようになった。自分が一番辛いときに、祖父からもらった手紙を見つけたときに、たくさん泣いて、泣いて、泣いて、ようやく悲しむことができた。そのときにはやっぱり一人きり。いや、一人とその手紙一枚だけだった。
だから、今回の俳優さんの死についても、ずっと悲しめることを待っている。
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彼女のことを心から応援していたから「お疲れ様」と言いたいのだ。そのためには、自分の中で彼女の死を受け入れて、受け止めていきたいと思っている。でも、たぶんそれには時間が必要で、数年経った今でもまだ難しいのであればこれは長い闘いになるのだと思う。彼女を思い出すことがないくらいに、私の中にまだ彼女がいる。だからまだ悲しむことができない。
でも、もしも彼女の死を受けとめて、涙が止まらなくなったときに、悲しみが私の中で溢れてきたときに、私はやっぱり一人なのだろうか。共に悲しんでくれる仲間はいないのだろうか。そんなことを身勝手ながら考える。皆と同じタイミングで悲しむことができなかっただけなのに、誰かと共に感情を共有して慰め合えたら、なんて思うのだ。
ないものねだりかもしれないけれど、「悲しみ」を待つ私は、それと同時に共に悲しむことができる仲間を求めているのかもしれない。いつか、その日が来たときに私はどうしているのだろうか。わからないけれど、ちゃんと、悲しみを大切に抱きしめて彼女に愛していたことを告げられる人間でありたい。そして、私と同じように悲しみのタイミングが少し他とずれてしまった人に寄り添える人になりたい。
私はずっと、悲しめることを待っている。彼女にしっかりとお疲れ様というために。