「家ではどんなもの作るの?」
どうして男性というのは何が作れるか聞くのだろう。

「大したものは作りませんよ〜」
「簡単なものって例えば唐揚げ揚げたりとか?」
簡単?唐揚げが?簡単?家で揚げるのが?
「あ〜、そうですねたまに作ったりしますね」
「女子だね〜」
コンマ数秒で口から飛び出す嘘に何度嫌悪感を抱いたことだろう。

「ふるっ」
そんな呟きも彼には聞こえない。
今日も私は勝手に家事=女子のレッテルを貼られた。

◎          ◎

家事といえば女がするものだ。
そんなことをいえば時代遅れだと言われるほど、今は性別による家事の隔たりは表面上なくなったように思う。男性でも料理はするし、主夫という言葉も違和感なく浸透している。
しかし遺伝子レベルで、家事は女性がするものだと植え付けられている気がしてならない。

世間という大枠で見ると、性別と家事との距離感は変化したように見えているが、世間を顕微鏡でのぞいてみると、昔と大して変わらない環境が点在しているのも事実である。
それは、男性側が女性が家事をするものだと潜在的に意識していることと同じほどに、女性もまた家事は女性がするものだと潜在的に意識しているのだ。

家事、とりわけ料理に関しては興味があり、両親が仕事で遅くなる時は作って準備していたことも少なくなかった。
そこに女子だから作らなければいけないという意識はなく、もっと単純で、人に感謝されることを求めて料理をしていたように思う。
そこにはこうして生活させていただいているという感謝も混じっていた。
そんな理由で料理をしていた私は、一人暮らしで料理を頑張ることはなかった。
誰かのための料理だったのだから当然といえば当然である。

◎          ◎

そんな私が、料理における潜在的な認識の偏りを感じたのは彼氏との時間だった。
一言で言えば、料理を含む家事全般を、一緒に住んでいるわけでもないのに訪れた際は全てこなしていた。
遠距離恋愛で、一度会えば一週間近く滞在していたのもあったため短期的な同棲に近い感覚だった。お邪魔させていただいている身で、社会人の年上彼氏ということもあり、仕事を頑張る彼のために仕事に行っている間に健気に家事をこなしたものだ。
あの頃はそんな状況に違和感を感じたこともなく、彼氏から感謝されることが生き甲斐だった。彼氏が私の家に泊まりにきたときはそんなことは一度もしたことはなかったというのに。
そう思うと愛というのはとてつもなく盲目で、異質だと思わず苦笑いが漏れてしまう。

当時の自分を客観的に振り返ると、彼からの存在価値が欲しさに女性としての魅力をアピールする手段として無意識に家事を選択していたように思う。
頭の中では家事に性別はないことはわかっている。それでも、刷り込まれた価値観というのはジェンダーを意識させる瞬間に強く現れることを知った。

◎          ◎

男性のCA、女性のトラック運転手、男性の保育士。
共働きの家庭や、女性が稼いで男性が家で家事をする家庭。
少し前までは想像もつかなかった多様な世の中になった。
これまでの性別による区別が無意味であることは十分に理解できるだろう。性別で世界が狭まるほど、人間の可能性は小さくなく、いつだって可能性は無限大だ。
多くの情報が流れ、凄まじい勢いで物事が消費されるこの世の中においては、過去の価値観に停滞しているとあっという間に浦島太郎だ。

「あ、先輩からあげ揚げたことないです?前日からの下準備から始まるんですが。もしかして、彼女さんに料理押し付けたりするんですか?」
もし今度勝手にレッテルを貼ってきた時は笑顔で伝えてみよう。
もちろん自分自身も無意識に相手にレッテルを貼らないことを忘れずに。

人は何人たりとも人を区別することなんてできないのだ。
私は私しかいないし、誰かは誰かしかいないのだ。
多様な常識の中、私は一人一人と向き合っていきたい。