去年の8月から、日記を毎日欠かさず続けている。文章の分量が多かったり少なかったり、字が綺麗に線の中に入っていたりはみ出していたりというバラつきはあるものの、1年以上続けている。

私は、好奇心旺盛で飽き性だ。興味を持って始めたことが三日坊主になることがよくある。だから、一つのことが1年続くなんて、かなり珍しいことなのだ。そんな私が、飽きることなくずっと待っているものがある。それは、才能の開花だ。

「人は誰しも何かしらの才能を持って生まれている」と思って生きている私は、未だ開花することなく眠っている自分の才能が開花する日を心待ちにしている。よく言えば、自分の可能性を信じている。悪く言えば、自分に才能がないという事実から目を背け続けている。諦めが悪い。私が開花させたいのは心に響く文章を書く才能だ。

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小学生の頃、国語の授業で物語を書いた。たくさん書いて、褒めてもらって、テンションが上がった私は作家になりたいと思った。それから何度か将来の夢が変わったけれど、書くことはずっと好きだ。そして、大学生になった今、作家になりたいという思いが再燃している。

初めはなんとなく、書くことを仕事にしてみたいなくらいに思っていたが、いろいろ調べていくうちに、ただ才能の開花を待っているだけではだめだと気付いた。待つという言葉の奥には、行動したり気持ちを維持したりするという意味が隠れているのだと思った。待つことには、とても大きなエネルギーが必要なのだ。何もしないでいることは、「待つ」ではない。私は、今まで大変な勘違いをしていたようだった。

気付けたのなら、あとは行動に移すのみ。少しお休みしていた、かがみよかがみのエッセイをまた再開することにした。様々なテーマについて考えて、文章を書く力をつけたいと思う。まだまだ未熟者の私は、とにかく書くことが必要なのではないかと思うので、「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」精神で数を打つことにする。

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とはいえ、ただ書けばいいということでもないような気もする。自分と向き合い、読んでくれる方の誰か一人でもいいから、心に届くような文章を書こうという気持ちを持って書きたい。文章が拙くても、半人前でも、思いだけは一丁前に持っておきたい。

自分の書いたものが人の目に触れる、触れないという違いは、私にとってはあまり重要ではない気がする。もちろん、誰かの目に留まる可能性のある文章を書くとき、読者を不快にさせないようにする配慮は必要だと思う。しかし、たとえ、誰にも見せないものや自己満足で終わるものであったとしても、私が見ている。自分しか見ていない文章なのだから、どんな言葉を使ってもどんな内容を書いてもいいと考える人もいるかもしれないが、私は1番の読者である私を大事にしたい。

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本当は、私がずっと待っているのは、誰かに認めてもらうことなのかもしれない。そして、私自身が私を認められるようになることを待ち望んでいるのかもしれない。私が書く文章を通して、私という存在や生き方も認めてもらいたいのだと思う。承認欲求の塊である。

私は私に期待している。もっと書けるはず、もっと、もっと。その期待が大きくなればなるほど、理想が高くなって、私の首を絞める。でも、自分に期待するのは完全に悪いことというわけではないと思う。期待があるから、理想が高いから、前を向けるときがある。一歩踏み出せるときがある。読者の私は書き手の私に期待して、花咲く日を楽しみにしたい。