去年3月。私は就職のため、ずっと暮らしていた実家を出ることになっていた。引越しのほんの数日前に、母と一緒に最後の思い出作りにと、新宿の老舗喫茶店に出かけた。重厚な雰囲気のあるレトロな店内で、コーヒーを飲みながら、他愛もない話に花を咲かせていた。

ふと母が真剣な顔をして、私の目をまっすぐ見つめて言った。「絶対に仕事はやめないでね。転職はしてもいいけど、働き続けてね。なんでもサポートするから。」

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母は長らく専業主婦をしていた。仕事は父と結婚してすぐに辞めたそうだ。母が勤めていた職場では、女性は結婚をすると仕事を辞めるのが当たり前だった。母は仕事を続けるという選択肢が頭に浮かぶこともなく、当たり前のように「寿退社」をした

父はいわゆる「転勤族だった」ため、母は父の仕事に合わせて、全国を引っ越してまわった。結婚した翌年、長女の私が生まれた翌年と、大きなライフイベントがあった直後でも、引っ越さなければいけなかった。今思うと、幼い子供を育てながら、馴染みのない地域へ数年ごとに引っ越しを繰り返す母の暮らしでは、「ママ友」すら見つけるのが難しかっただろう。ましてや、もう一度仕事に就くだなんて、とても考えられる状況ではなかったはずだ。母は家庭が全ての状態に置かれ、20年ほど専業主婦として家族のために時間を捧げてきた。

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そんな母も、私が大学に入学した年に、カフェでバイトを始めた。

カフェでバイトをし始めてから、母は変わった。もともとファッションに興味がある方だったが、毎日のように外に出て人に会うようになったからか、より一層、服やメイクを楽しむようになった。

以前は「もう若い服は似合わないから」とベーシックカラーの地味な服しか着なかったが、バイトを始めてからは、パステルカラーや原色のアイテムも取り入れるようになった。職場には同年代の主婦もいるらしく、同僚と仲良くなり、シフトのない日に一緒に遊びに行ったりするようになった。

カフェの仕事もとても楽しんでいた。美味しいコーヒーの淹れ方を研究するために、いろいろなコーヒー豆やコーヒーを入れる器具を買い揃えるようになった。バイトが休みの日は、何種類もコーヒーを淹れてダイニングテーブルに並べ、真剣な顔でメモを取りながらコーヒーを飲み比べていた。

おすすめの豆が手に入った時や、カフェラテが美味しく淹れられた時など、私にもコーヒーを分けてくれた。コーヒーを飲みながらする昼下がりのおしゃべりは、母と娘としての話ではなく、友達のようなフラットでくったくのない会話だった。母のバイト先であった面白い出来事、行ってみたいカフェの話、最近気になるスイーツの話、など……

母は仕事を始めたことによって、日常に小さな楽しみが増えたようで、目に見えて生き生きとするようになった。母には母の楽しみがあることは、娘としても喜ばしいことだった。母が毎日楽しそうにしている姿を見ると、女性として生きなければいけない私も、将来に希望が持てるような気がした。

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そんな母の姿を間近で見ていたからこそ、「絶対に仕事を辞めないで」の言葉は重く響く。母には結婚しても仕事を続けるという選択肢がなかった。だからこそ、仕事を続けて自立して、社会と関わり続ける大切さや楽しさを知っているのだろう。

自分が選べなかった道を、娘の私なら歩めるだろうと信じてくれている。だからこそ私は、細々とでも、ずっと仕事を続けたい。きっとそれが母が私にかけてくれた期待や信頼に報いることになるから。

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先日、久しぶりに母と電話をした。母は変わらずカフェの仕事を楽しんでいるようだ。私が家を出て以来、母はよく「あの時仕事を始めてよかった」と言っている。娘が実家を離れ、子育てが終わった時に、第二の人生を楽しむ手掛かりになっているのだそう。間違いなく、母はコーヒーで自立を手に入れた。

最近は私も母をまねて、ハンドドリップでコーヒーを淹れるようにしている。毎朝少しだけ早起きをして、コーヒーを飲むことで、少しだけ背筋が伸びる気がする。自分を奮い立たせるために、今日も私はコーヒーを淹れて、仕事に向かう。