介護と聞くと、去年病気で亡くなった母の顔が浮かぶ。

でも、結局私は最期まで何の力にもなれなかった。ひとりで母の世話をし続ける妹からの電話を、ただ黙って聞くことしかできなかった。まかり間違って妹を傷つけるようなことはしたくないから詳しい内容を書くのは控えるが、妹は疲弊しきっていた。電話の向こうで泣いていることもあった。ただそれは、純粋な悲しみによる涙ではない。 

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身体の自由が効かなくなってもなお、昔と変わらず気難しいままで、棘が散見される心も丸くなることがない母。妹は疲れ果てていたし、同時に困ってもいた。どちらかと言えば、母に対する怒りに近い言葉を吐くこともあった。

夫婦間の不仲により長年別居状態だった父に連絡することも考えたそうだが、「あの人には絶対に言うな」と母は頑なに禁じていたようだった。しかし、亡くなる1週間ほど前になって、母は諦めたようにその口止めを取り下げたらしい。何日間か家を空ける予定が妹に入っており、1人では身動きの取れない母を看る人が必要だった。

元々母は身体があまり強くない人ではあったけれど、病に蝕まれていることも、先がもう長くないことも、家族の中で唯一父だけが知らなかった。すべてを唐突に知らされた父の心境もまた、計り知れない。10年近く別居していたのは事実だけれど、父はずっと母のことや私たち姉妹のことを気にかけていたような気配があった。

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遠い昔は、どこにでもいる、平凡で穏やかな4人家族だったと思う。

母は少々厳しかったけれど、その代わりに父はのんびりとしていて、歳がひとつしか変わらない私と妹はいつもじゃれ合っていて。

ただ、徐々に家の雰囲気が悪くなり始め、母と父の衝突が絶えなくなった。そして、家だけではなく学校でも息苦しさを感じていた高校生の私は、大いに荒れて周りにたくさんの迷惑をかけ、気づいたら母のことを強く遠ざけるようになってしまった。

幼い頃から蓄積された母からの干渉や投げられてきた言葉たちが、なぜか大人になってからばらばらと勢いよく崩れ出し、収拾がつかなくなった。逃げるように家を飛び出して、そのまま母とは一切の連絡を取らなくなり、数年の月日が過ぎていった。

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とはいえ、母は母だ。離れて暮らしているとしても、家族であることに変わりはない。縁を切ったわけでもない。

それでもなお私は、その場から動くことができなかった。「いっぱいいっぱいになっている妹のことを助けなければ」と頭では思うのに、母が絡むとどうしようもなく身体が固まってしまう。

私と母の間に流れている得体の知れない空気感は妹も感じ取っていて、母の世話に関して何も動こうとしない私のことを責めはしなかった。だからこそ、妹に対する罪悪感は募る一方だった。電話で母の容態に関する話を聞きながら、「ごめん」と何度も妹に謝った。何もできなくてごめん、と。

私がようやく母と会う決心がついたのは、亡くなる前日だった。危篤の連絡を受け、「今行かないと絶対後悔するよ」という夫の後押しもあり、かつて生まれ育った故郷に急いで向かった。

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人は、生まれた時よりも亡くなった時のほうが諸々の手続きが大変だとどこかで聞いたことがある。

この手続きの際も、私はほとんど妹の力にはなれなかった。あちこちに赴き、関係各所と連絡を取り、必要書類を提出し…妹は、すべてを淡々とこなしていった。

妹は母と長年同居していて、対して私は遠方に住んでいて…という状況に置かれてはいたが、それは建前でしかない。家族の形が正常に機能しているのであれば、私にできることはたくさんあるはずだった。いや、やらなければいけないことのはずだった。

その後妹は、母と住んでいた部屋を引き払い、恋人と共に新しい家に移り住んだ。同時に入籍もした。来年には結婚式を挙げる予定らしい。

母から逃げ続けてきた私にできることは、母を看続けてきた妹を目一杯祝福することしかない。妹は、どちらかと言えば家族内の不和に“巻き込まれてきた”側だ。どうか、これからの人生は幸せなもので満たされ続けてほしい。願いというよりも、祈りに近い。

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そして、もうひとつ思うことがある。

病弱かつ病院嫌いだった母とは一転して、還暦をとうに超えても心身ともに健やかな父。父はおそらく元々自己管理能力が高い人で、早寝早起き・1日3食・適度な運動を日々心がけ、お手本のような健康生活を送っている。明け方に起床し、近所の山を上るのが毎朝のルーティンらしい。20代の私よりもよっぽど体力があるし、食欲も旺盛だと思う。

とはいえ、人はいつしか“終わり”が来る。

母がこの世界からいなくなってしまったように。

何の罪滅ぼしにもならないとは思うが、もし父の身に何か起きたときは、今度こそ妹に任せきりにはせず、力を合わせられたらと考えている。

過去は、変えられない。抱えている罪悪感も、きっと永遠に消えない。

だからこそ、せめて来たりくる未来に対しては、誠実でありたいと思う。

逃げることなく、言い訳することなく、正面から向き合いたい。今までできなかったことを改めて見つめ直し、もう二度と同じ過ちを繰り返さないようにしなければいけない。