空を見上げると星が見えることはよくわかる。

どれがどんな名前を有していて、なんの星座をかたち作っていて、何等ほどの輝きで……そのようなことを知らなくても、知っている。

考えてみれば、不思議なことである。あんなに明るいのに夜空でしか見えないこと、季節が変わるとあちらも変わること、落ちてこないこと。星というのは不思議なもので、不思議なことなのである。その輝きがどれほど確実なものに感じても、あるいは不確かに感じても、なお、ずっと。

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私が初めて星を認識したのは保育園年長のとき、いちばん星見つけたというフレーズを知ったと同時に認識したような気がする。

そんなことはたぶんないのだが、でも、そう思う。
車内から夕暮れの空を見上げて、その空の色は覚えていないのだが、ごま粒みたいなものがギザギザした細い線を八方に広げていたのはよく覚えている。
これが星かと思うより、これが星だと思った。

星のあり方に疑問はなく、ただ単に、これを星だというのだとわかった。不思議なことだ。

やはり幼いころに読んだ本で、「あの人は星になったんだ」というフレーズを見た記憶もある。私はそれを見たとき、ばかばかしさを感じながらも、なんとなく飲み込めそうな手触りを同時に知覚した。

どれだけ人が死んだことを美化したいからといって、あんなに煌めくような見事なものに例えるのはだいぶ無理があると思った。

けれどもそういうことではなく、死んだから遠くへ行ったことを表現したいんだろう、ということもちゃんとわかった。傲慢な人間の意思を感じ取った。

物事の数というのはある種の可能性をそのまま表現しているように思える。

友人の数と質のどちらを取るのかということはよく議論され、なぜだか後者の方が思慮深く気高く感じ取られがちだが、私は前者にも頷ける部分がある。理由は先に書いた通りだ。
どちらを取るかとたずねるから優越が生じてしまうのであって、どっちが好き?とたずねたらいい。好きなことに理由はいらないからだ。

空を見上げてみると、疲れきった現代人の目にはなかなか多くの星は映らない。ビル街が多かろうが森林の緑にふくよかな土地だろうが、疲労の度合いはたぶん、多くの人間に共通している。
それでも空に目をやると、どうにかキラキラしたそれが見えることもよくある。窮屈な屋内の壁や天井、あるいは電柱、そんなものの届かぬ黒くて青くてまた黒い、そんな世界がそこには広がっていて、意外と楽しい光景である。目に映るそれも、そうしている人も。

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私はよく星になりたいと思うことがある。これまでの話を振り返ると生死のこととか人の目のこととか、そこに起因するんじゃなかろうかといぶかる人もいると思うが、そういうことではない。

なぜだろう。なぜだろうか。まず宇宙というのは涼しくて冷たくて、きっと静かな所という気がする。無論学問的な話ではなく、肌感覚だ。
他と他との間が十二分に空いていて、それから気ままに浮かんでいられて、それなのに認識されることも不自由なく可能というのは、なかなかいいんじゃなかろうか。恥ずかしくなれば、真昼の空に浮かんでいるのだと、そう思ったらいいし。

宇宙を見上げるのは他所に住むもののすることで、星には夜も昼もなく、いたいようにいて、いられるままにいられるからだ。

こう考えると、星になりたい気持ちが伝播した人もきっといると思う。ブルーライトを通した板でこれを読み、空に思いを馳せ、届かないけど手を伸ばして、また帰ってくる人。

できると思う。星になることは。

浮遊感や空気の快適さはテクノロジーがどうにかしてくれる。空間の空きも同様に。認識されることの自由さだって、今はインターネットでもなんでもある。あとはなんだろうか?

夜も昼もなく、いたいようにいて、いられるままにいられること。

人の目は玉虫色をしている。それは己にしか見えない色で、人の瞳がどんな色合いか、それを知ることは憶測でしかない。思いたいように、思える。宇宙みたいに。

大丈夫だ。
星になって生きていける。星にならなくても、生きていける。
翻っても翻らなくとも、あなたも、私も、生きていける。輝いている。そのままで。
今日も世界は煌めいている。