信じるという言葉は、私は好きではない。最近、その言葉にプレッシャーを感じるときがある。信じているから大丈夫だとか、頑張ればいいとかそんな言葉はいらない。どちらかというと、そのままで大丈夫という言葉のほうが信用しやすい。しかし、直感を信じて生きることは苦しくも楽しい。

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書くことは考える事であるけれど、伝えたいことにぴったりな言葉を紡いでいくことは直感を信じることだと思う。卒業制作で恋愛小説を書いていると、結末までたどり着くことが最も難しいと知った。物語を展開させるために書き続けることはできても、その物語の結末を書きあげることは難しい。どんな場面で、どんな言葉で物語を結ぶかを考えれば考えるほど、結末にはたどり着かない。そんなときこそ、直感を信じるしかないのだと書きながら思い知らされたのだ。結末を書くことは、とても苦しいことで最後の力を振り絞ってマラソンのゴール地点でテープをくぐるくらい、達成感があるものだ。

走って、飛んだ先に行きつけるのは直感を信じた人だけなのかもしれない。特に恋愛は楽しいことばかりではないと小説を書き始めてわかってきたからこそ、好きだという直感を信じて突き進んでいく主人公の姿には心打たれるものがある。私が生み出した小説を読んでくれる読者に、そんな感想を抱いてもらえたら私の恋愛小説は完結したことになるはずだ。書くのが苦しいとき、直感を頼って肩の力を抜く。そうすれば、書きたかったものが生み出せる。小説を書くようになってから、直感を信じて進むことは私にとって大きな救いである。

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好きだと思ったものを好きでつづける秘訣が、直感を信じることだとしたら、不安定な社会で何の不安もなく生き抜くことができる。そう思わせてくれるのが、純愛だと私は思う。自分にとって愛している人のために背負った罪なら、一生その罪でさえ愛おしくなる。最近、とある映画を見て感じたことだ。さらに誰かを愛することに理由などなくて、すべて恋愛は直感を信じた先で育んでいくものである。その人のどこが好きで、なぜ好きになったのかは直感を信じているからそんな想いが生まれたわけであって、恋にも愛にも論理性など全くないのかもしれない。好きな人の嫌いだなあと思う部分も愛おしく受け入れることができたとき、きっと恋愛から純愛へと新たな物語が紡がれていくのだろう。

愛は狂気であるということも、直感を信じた先で感じる事であるに違いない。愛に満ちた人に出逢ったとき生まれ変わったかのように心が浄化されていく瞬間を感じ取ることができたなら、それは直感的な愛に出逢ったことと等しい。好きという気持ちは直感を張り巡らせた結果であるといえるからこそ、信じるという言葉があまり好きではない私も、恋愛では直感を信じていきたいと心から望みたいと思っている。

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そして、芸術作品を鑑賞することは感性を高める刺激に繋がるのだ。小説や音楽からは言葉だけで移りゆく景色や、作中で描かれるそれぞれの人生を想像するだけで直感を信じるきっかけが育まれるのだと考えられる。こうして直感を信じる人生と、これはこうだからと自分なりの論理で歩む人生だったら、どちらが楽しいのだろうか。それはまだ私にはわからないけれど、どちらにも地に足をつけた幸せが芽吹くはずだと感じている。やりたいと思ったとき、すぐに実行に移せる人ほど直感がさえている人だといえるし、そんな人生を歩むことに潔さを感じながらカッコよさを放っているのが見えてくるのだ。

この世には人生観や恋愛においても、さまざまな直感の信じ方がある。自分にはない考えの人と出逢って好きだと一目ぼれして、一生の愛を奉げたいと思ったとき、それこそが直感を信じることなのだと私は思う。