サンタクロースいる・いない論争というのは誰もが一度は通る道だろう。ここで私の立場を表明しておくと、基本線として「いる」を突き通している。一度だけその信念が揺らぐ出来事があったものの、それはそれ、これはこれなのだ。サンタさんはいるんだから!
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小さい頃は「いる・いない」の二項対立がそもそも存在せず、そういうものだと思っていた。
というのも、親からのプレゼントとサンタさんからのプレゼントが別だったし、夜中に目覚めることも起きて姿を一目見てやろうとすることもなかったため、プレゼントを置いていく影すら見たことがない。
ちなみに一度だけ、サンタさんに手紙を書いて机の上に置いておいたことがあった。持ち帰ってくれて、なんならお返しのメッセージを書いてくれたりするのかな……などと思っていたのだが、翌朝見ると私の手紙は残ったまま。
しかしそこに包装用のピンクリボンが1つ貼られていた。おそらく「読んだよ」という意なのだろう。当時は正直やや物足りなかったが、プレゼントの他にリボンまで追加してくれたと思えば十分だろう。
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そんなこんなで音もなきサンタさんの到来を疑うことなく過ごしていたのだが、事件は小学6年生の年に起きた。
巷では、サンタさんの存在を疑って欲しいものを聞かれても答えないという子もいるらしい。しかし私は毎年素直に答えていた(むしろ自分から宣言していたかもしれない)。 小6の年も例年通り母に伝えていたのだが、ある日偶然視界に入った父のパソコン画面で、その商品が載っている通販サイトがひらかれていたのである。
私は間違いなく「サンタさんからのプレゼント」としてその商品のことを話していた。つまり本来なら父が調べる必要はないのである。親からサンタさんに伝えているんだよ、と言う人もいるかもしれないが、私はその二者間に繋がりは皆無だという立場にいる。サンタさんはいちいち親が報告しなくても子どもが欲しいものをわかっているはずなのだ。
しかし業務委託を含めた〈繋がり〉説を否定するとなると、今度はこの状況を説明できなくなる。そんな頭の硬い私はどうしたかというと、一時停止した後『これは、”見てしまった”のかもしれない……』と思い、視界に入ったこと自体を悟られないようにしようと決めたのだった。
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正直、この出来事によって純度100%の「サンタさんはいる!」ではなくなったかもしれない。しかし私は今でも、たった1人のサンタさんが世界中にプレゼントを配ってくれていると信じたい。
先述の出来事に関しては〈サンタさんは小5までだった〉ということで折り合いをつけた。本当は昨年で終わっていたが、それだと区切りが悪い。だからあと1年は親がサンタさんの代わりをしてくれたのだと(実際、中学生からは来なくなったはず)。
それに、これまでは欲しいものを狙い撃ちにしてくれていたのに、この年だけはニアミスだったのだ。キャラクターは合っているものの商品が違う。嬉しいけれど喜びきれなくて、それが申し訳なくもあり……という複雑な心境になった初めてのクリスマスだった。サンタさんならそんなミスはしないはずなので、やはりこの年だけが親だったという説明がつく。
なぜ小5で終了したことが親に伝わったのかは謎だが、そんなことはいいではないか。私はこのことについて問いただしていないし、親からも何も言われていない。つまり私が生まれてから現在に至るまで三谷家にはサンタさんが実在し続けているのである。
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ただその一方で、こうして突き詰めて考えていくと無邪気にサンタさんを信じ続けてもいいのだろうかという気持ちも湧いてくる。もしかしてもしかするのであれば、親に対して感謝の念をもっと抱くべきなのではないかと……。
”1人っ子なのに2人分用意してくれたってこと?”
”手紙を引き取ったら後で見つかるとマズイし、捨てるのも忍びなかったんだろう。さらに筆跡で辿られないようノンバーバルコミュニケーションにしたのかな”
……でも、サンタさんは今頃フィンランドで配達の準備を始めているに違いない。そう信じ続けたくもあるのだ。
現状、子どもを授かる予定はない。そのため「いる・いない」の決着をつける強制イベントは訪れないだろう。小6の件を含め親と語らってみたい気持ちもなくはないけれど、とりあえず今年はこのままでいようと思っている。何でもかんでもはっきりさせる必要はないからね。