「#スマホの奴隷をやめたくて」なんて本を書いている私がこんなことを言ったら「まーた、あいつ時代遅れなこといってるよ」と言われてしまうかもしれないし、時代の流れに逆らってると後ろ指をさされてしまうかもしれないけれど、今どうしても思っていることなので聞いてほしい。

ここ最近。日常生活でどうしても緊張するものがある。
あいつの存在があるだけで日常にスリリングさが増す……というのにどんどん侵食してきててそのたびに私を少しヘコませる。

あいつとは、【セルフレジ】のことである。

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最近スーパーで4台あったレジのうち2台がセルフレジになったり。
ダイソーが有人レジをなくしてセルフレジオンリーになっていたり。
スーパーが改装するから何かと思ったらセルフレジを増台していたり。

とにかく最近セルフレジと出くわす機会が多い。
何故そんなにセルフレジを推してくるのか世の中の流れに疑問符×100である。
そりゃあ自分で何でも出来るにこしたことはないし、人間自立は大事だとはわかってはいる……けれど……。

どうしても私はセルフレジが苦手だ。
セルフレジに出くわすと、なんだかもやっとする、嫌なものを見てしまったような、モンスターと遭遇してしまったような、そしてもやっとすること自体、時代に適応できてない事を責められているみたいでなんだか悲しくなる。

何故苦手なのか。
今まで見慣れたありふれた光景が変わっていくことに対する漠然とした苦手意識も持ってはいるものの、少しの理由もある。

以前イオンのセルフレジで打ち忘れて万引をしそうになったことがあるのだ。

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色々と買った中でひとつの飲み物のペットボトルをスキャンし忘れて、それに気付かずそのままレジを終えてセルフレジを後にしようとしたけれど、自分で「あれ?」と商品の打ち込まれた画面を見て気が付いたのだ。あれほど肝の冷えた瞬間はない。

もし気が付かなかったら違和感なく、しようと思ってしたのではなく万引をしていたかもしれない。
そして万引した飲み物で喉を潤していたかもしれない。そう思うとゾッとしてしまう。
セルフレジの側には店員さんもいる、防犯カメラだってついているし、もしそのまま通り過ぎたとしても店員さんが「スキャンお忘れのものないですか?」と声をかけたかもしれない。

そうは分かっていてもスリリングさに萎縮してしまうのだ。ああ、苦手だ。
でもなんとなく苦手というと現代人失格の烙印を押される感覚はもっと苦手だ。
だからぐっと堪えてセルフレジを使ってみていた。なんで日用品や食品を買うのにこんなに心をぐっと絞られるような気持ちにならねばならんのかと思いながら。

世の中、「苦手」を許さない風潮がある。
見聞を広げてみると、日本では特にその風潮が強い。
「得意」なことを讃えられるよりも、「苦手」なことに指を指すばかりだ。

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「苦手」じゃいけない、セルフレジに適応しなくちゃしなくちゃ、という、たかが買い物だがされど買い物の抑圧された日々の中で、ふと有人レジの方に並んでみた。
「いらっしゃいませー」
というおばちゃんの声になんともいえぬ安心感があった。

そして私は必ず有人レジで一言
「お願いしまーす」
というのが習慣づいていたことをかごを置きつつ思い出した。

ちょっといい子ぶってるかもしれないが、店員さんに乱暴な態度を取る嫌な客も多いだろうけれど、ひとりでも感じのいい客がいれば少し気持ちが晴れるのを知っている……自分も接客の仕事をしていたことからなんとなく、いつからか自然に口をついて、今まで何度も口にしてきた何気ない言葉。

私はこっちがいいなあと思った。

セルフレジ、を体感してから有人レジでピッピッとおばちゃんがバーコードを読み取ってくれる時の謎の安心感は何物にも代え難いし、なんとなく人との関わりみたいなものがある方が温かみがあって好きだ。「苦手」な物に無理に適応して、日常に緊張の糸をびんびんに張りつめさせる必要なんてないのだ。

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これから先の未来有人レジがなくなってしまったらどうしようと想像するとピンとまた緊張の糸がはる。
もちろんセルフレジが悪いというわけではないし、スーパーでお店屋さんごっこのように商品をスキャンする家族連れの子供を見ると微笑ましいと思う。でも私は苦手なのだ。
お年寄りが間違えてセルフレジに並んでしまって困惑して店員さんに頼り、そのことで後ろに並んでいる人があからさまに苛立つ様を目の当たりにするとなんだか悲しくなる。

人によって苦手なもの、得意なもの、好きなもの、嫌いなもの、がある。

嫌いなものは無理に好きにならなくていいけれど、でもどうしても多数派や世間に苦手なものを押し付ける局面はある。

でも苦手なものに無理に歩み寄るのはしんどい。

どれだけ慣れようにも、慣れない人はいるだろうし、無理して会得しなくてもいいのではないかと思う。

苦手なら苦手であることが尊重されればいいし、ひとつのものが押し付けられずに、セルフレジもあり、有人レジもある、ように共存すればいいのにと思う。

なんだかこの世界は選択肢が少ないのだ。1つの答えだけを押し付けてくる。

それはなんだかとても悲しいことのように思う。

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今日もまたスーパーに立ち寄る。

利便性を求めて導入されたはずなのに、セルフレジと有人レジが半々になってからどちらのレジの付近も前よりも混雑し、列が長くなった。

セルフレジは進むのがとても遅い。操作が不得手の人もいるし、もたつく人もいる、マイペースな人もいるで、ずらり。

有人レジは私のようにセルフレジが苦手な人なのか、はたまた仕事帰りで疲れていてバーコードを読み込むことすら億劫なのか……素早く職人技にバーコードをかざすおばちゃんを求める人で、ずらり。

セルフレジの前、ゆっくりとバーコードをスキャンしている人にあからさまに苛立ちの視線を送る人を横目に、けれどもしもセルフレジに並んでいたら私も「早く帰りたいのに」「遅いなあ」「バスの時間になっちゃうよ」「まだかなあ」とか余裕がなくなるかもしれない……と思いつつ。

日常に潜む緊張の先に「多様性」をみた私は、今日も有人レジに並ぶ。

そして顔なじみの店員さんに「よろしくお願いしまーす」と言う。