楽観的な私は、あまり緊張と縁がない。たぶん幼いころからそうだったと思う。

大抵ことはどうにかなるし、どうにもならないことは「ならなかった」と位置付けるため、結果としてあまり落ち込むこともなかった。

見えない未来はどうなるかわからないから、悩んでも仕方がないとどこか悟りを開いたような考え方をするものだから、結果として、緊張とはあまり縁がなかった。

ただ、このテーマをみたときに、一つだけ思い出す緊張があった。
それは、試験でも面接でも、就活でも、一人暮らしでもなくて、愛するキャラクターとのグリーティングだった。

「グリーティング」いわゆる、そのキャラクターと会って軽いおしゃべりをしたり写真を撮ったり、もしかしたらサインをお願いしたりするイベントだ。私は何度この経験をしても、いつも緊張していた。この緊張は、何かの試練と同じような緊張だった。

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一般的には、キャラクターグリーティングは娯楽の中に入るのだろう。

もちろん、私も好きだからこれをするわけだが、ここに私は別意味も加わる。

そう、それは愛する人に自分の想いを伝えるかのような、しばらく会っていない両親に自分の近況を伝えるような、そんな意味合いだ。背筋が伸びる感じがする。だから私は一等この瞬間が緊張するのだ。

キャラクターと会って、しゃべって、写真を撮り、時にはサインをもらって、お見送りをしてもらうまでの数分。私は、自分史上最高にいい女でいたいと思っている。

気に入りの洋服をきて、予行練習として何をしゃべるのか脳内でシュミレーションして、鏡の前で笑顔の練習をしている私は、まるで面接前か、もしくは結婚報告をする前夜のようだ。ただ、相手は愛するキャラクターなのだけれど。
本来、緊張は見えない未来の前に起きるかと思う。試験の前、就活の前。結果がどうなるかわからないから緊張をする。

でもキャラクターグリーティングは大抵歓迎されるし、写真も撮ってくれるし、お見送りまでしてくれる。流れは同じだから結果はある程度約束されている。はたから見ると緊張する要素はどこにもないだろう。

でも、私の場合は毎度まいど胸が張り裂けそうなくらい緊張するのだ。
 
いざ、キャラクターと会える瞬間、私は何度も予習をしてきた言葉と表情を思い浮かべようとするが両手を口に当てて「あっ!うわ!」としか声が出せない。好きなものへの感情が大きくなりすぎると、人間は言葉を失うのだといつもここで実感する。

今日こそ、ちゃんとするぞ!成長した私を見せるんだ!そんな気持ちでいるはずなのに、結果は惨敗。キャラクターに介抱される始末だ。

しどろもどろになりながら「あなたが好きです」となんとか伝えると、相手は「伝わっている」とジェスチャーで返してくれる。これも想像できたはずなのに、実際に目の前で見るとそのまま倒れそうになる。

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ここで私はやっと気づく。

私はどこか楽観的で、いわゆる刹那的な生き方をしているのかもしない。

見えない未来は誰だって怖いのだから、わざわざ怖いことを考えなくてもいいじゃないか。とか、みんなが怖いものだから、怖いのなんて当たり前じゃないか。とか、そんなちょっとひねくれた考え方をしている。

だから緊張とはあまり縁のない生き方をしてきているのだけど、キャラクターグリーティングのときに思う「今日こそは立派な私を伝えるぞ」とか「ちゃんと好きって言えるかな」とか、そういう緊張を周りの人は日常でしているのだということ。私は偶然それを人間ではなく、キャラクターにしているのだけれど、気持ちに変わりはないだろう。

この「緊張」について、私はキャラクター相手だからと言って軽く思ってほしくない。

誰かが感じる試験前の「緊張」ときっと大差はない。

要は、緊張の先は人によって様々な可能性があるけれど、仮に想像がしづらい「緊張」があったとしても、それをなかったことにはしてほしくない。私が感じるあの緊張と、誰かが感じるその緊張は、同じくらい怖いし勇気がいるし、そして胸が張り裂けそうになるものだ。

しかし、できるならば緊張からは離れて生活ができるようになりたい。