入社してまだ数年しか経たない私は、たまにキャリアについて考えてみることがある。

仕事、結婚、出産。何を優先するべきか、どの時期にどうありたいか、そのことに思いを巡らせると、どんと重たく感じる。

不思議なことに、その中に介護という2文字は浮かばない。介護と言われるとどこか現実味を帯びない話に思えてくるのだ。

友人から、親の介護がはじまっちゃって〜とか、祖母が介護から解放してくれなくて困ってる、など愚痴を聞く機会も増え始めた。しかし、どの話も自分事にならず、必ず誰しも通る道であるにも関わらず、なぜか他人事のように捉えてしまう。

ニュースで度々報道され、社会では大問題になっていて、その問題の深刻さと重要性は十分頭では理解しているというのに。

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家族の介護を実際に目の当たりにしたのは、数年前の祖父の時だった。祖父は基本施設におり、家族の揃う週末だけ自宅に戻ってきていた。幼少時から祖父とは同居で、祖父がいる生活は何も不思議な点はなく、むしろいない方が非日常だった。

帰宅した祖父は居間にスペースをなんとか作って置いた医療用ベッドで寝起きした。お手洗いや入浴の際は、両親が手伝う。

祖父は、昔は車も軽トラも運転し、鉄棒や竹馬など欲しいと思ったものはなんでも手作りしてくれた。60歳を過ぎてから海外旅行を趣味にするようになり、病気をしたあとも1人でアメリカに行くような人だった。その旅の合間に、祖父は畑でありとあらゆる野菜を作っていた。

とにかく、祖父は私からしてみれば、元気でアクティブでなんでもできる人だった。そんな祖父が日ごとに弱っていく。

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遠方で1人暮らしをしていた私はその様子を携帯の画面越しで見ていた。

祖父は足を動かす運動を毎日のようにしてみせて、うまくいくと画面越しに私の手を握ろうとした。もちろん握れるわけないのだが、祖父はニコニコと笑った。

昔リハビリで足腰を回復させた経験のある祖父は、足さえ動けば、いつか帰宅できると信じていたのだろう。何度も何度もベッドの上で足を動かしてみる。その様子がまるで幼稚園児のように可愛くて、私は少し笑った。

週末を迎えると、母は祖父に食べたいものを聞いた。決まって祖父は鰻が食べたいという。その答えをわかっている母は、先回りして鰻を既に買っている。医者や施設の人から鰻を食べていいと言われていたのかはわからない。それでも毎週のように家族で鰻を食べる。介護の愚痴を両親は一言も言わなかった。しいていうなら、思ったより施設代が高い、それくらいであったろうか。

第何波目かのコロナ禍がやってきて、祖父の一時帰宅はいよいよ許されなくなった。祖父は施設に篭りきりになった。認知症が少しずつ進行していた祖父はおそらくあまり状況を理解していなかったのだろう。年末帰省した私がお見舞いに行くと、コロナ対策で隔てられたガラス越しに、祖父が泣いているのを見た。

「自分も頑張るから、頑張るんだぞ」

祖父のこの言葉は、亡くなって数年経つ今でも、私が怠けようとするたび叱咤激励されているかのように思い出す。ついに祖父は帰宅が叶わなかったが、ずっと帰りたいと思っていたんだろうなと、私は時折思いを馳せる。

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祖父もそうであったように、私の両親も、そして私も、歳を取れば同じ状況が訪れ、そして実家に帰りたくなるのだろう。

きっと介護という言葉の深刻さがどこか現実味を帯びなかったのは、両親が介護の辛さを全く見せなかったからじゃないかな、と私は思っている。そう考えると、祖父は幸せ者だったのだろうし、周りが丁寧な対応をしたくなるほど、素敵で魅力的な人だったのだろう。

自分の時、そんな風に介護してくれる人はいるのかな、と思ったり思わなかったり。やはり現実味がなくてあまり深刻に捉えきれていないが、ギリギリまで自分自身の力で生活できるよう、今のうちに体力をつけておこうと思う。