煌めく街並み、浮き足立つ人々が出現する前に、早々と街を通り過ぎる。全世界のほとんどの人間が、なぜか祝う他人の誕生日。かつてはそんな人々に混ざって浮かれていた自分もいた。その日の自分の役割を探して、他人のために働いたこともあった。今は、早く家に帰って少しだけ美味しいものを食べる日となっている。

小さかった頃は、前日の布団の中でなかなか寝付けなかったのを覚えている。あまり物を欲しなかった私ではあったが、それでも何がもらえるんだろう、明日のご飯は美味しいものがたくさん出るな。そんなことを考えただけで幸せな気持ちになっていた。

パートナーがいたときも、その日が近づいてくるだけで、どこか気持ちが浮つきワクワクが止まらなかった。いつも得意ではない人混みも、その日はなぜか嫌ではなかった。周囲に同じように幸せそうな人々の空気が嫌ではなく、むしろその場にいる全ての人が同じ幸福を味わっているという共有が心地よかった。煌めく街並みの一部となり、大切な人と過ごし時間は、何者にも変え難かった。

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そんな幸せの一部から外れた今、その空間はむしろ眩しすぎて苦しい。

学生時代は、あえてその日にアルバイトをいれ夜中の0時までその日を楽しむ人々をカフェでもてなしていた。その時間は不思議と苦痛ではなく、私はアルバイトをすることでその日の、その夜の役割を得ていたように思う、少なくとも何者かにはなれていたのだ。

社会人になると同時にコロナが蔓延していたここ数年は、イルミネーションを見ることはあってもその日を祝う人々を屋外で見る機会が少なく、自身へのダメージがなかったから気づいていなかった。

何者でもない状態でその日を初めて迎えた昨年。こんな時間に外に出るんじゃなかったと、夕方激しく後悔した。浴衣を着て夏祭りへと向かっていた人々が、半年ぶりに輝きながら出現した。あまりにも眩しすぎる幸せな空気を吸っただけで一気に息が苦しくなった。

かつては自分もそこにいたにも関わらず、少し自身の位置が変わっただけでこんなにも印象が変わるのかと、そそくさとケーキを購入し帰路へとついた。偶然にも誕生日が近いこともあり、欲しいものは誕生日に購入してしまいその日に自分へ何かを購入するといったこともなく、ただの1日としてすぎていった。

日本人というのは、切り替えが早い生き物だと心底感心するのだが次の日になった瞬間から、街並みもスーパーの商品さえも、全てが年末年始へと移行する。昨日までの空気が魔法のように消えるその現象にある意味助けられた。年末年始は誰もが当てはまるイベントであり、私も参加する権利があるのだから。

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家族が近くにいないから、パートナーがいないから。ただそれだけで、こんなにも印象の違う誕生日、一体どういうことなのだろう。冷静に考えてみると、家族やパートナーといった人々は、私のことを好きになってくれ愛情を与えてくれる、そういう観点で共通性がみえる。

物心ついた頃から、その日は愛情をいつもより感じられる日だったのだ。大人になれば家族からの愛情が、パートナーからの愛情に自然と移行し何も違和感なく与えてもらっていたのだと思う。

世界規模で同じように愛情を与え与えられている日、にもかかわらず私はもらえない。そんな側面が、息ができなくなる原因だったように思う。自分のことは自分自身で甘やかすと決めてはいても、その時の心理状態や環境によっては人から価値や愛情を与えて欲しいときもある。

今年も望みは薄いので、美味しい物をたくさん買い込んで自分を甘やかそうと思う。 少しだけ嫌味ったらしく、バースデーソングでも歌って彼の誕生を祝うつもりだ。