「誰にもこの気持ちは理解してもらえないだろうな」
漠然としたその気持ちが芽生えたのは、まだ年端もいかない頃だった。

少し立派な近所のお家には私より少しだけ年上のお兄さんがいて、ものすごく怖いお婆さんがいたのを昨日のように覚えている。私が喋るだけでお婆さんは怒っていたし、家に帰っても自分のひいおばあちゃんも怒っていた。

何かやんちゃなことをしていたワケではない。ふざけたことをしていたワケでもない。周りの人が優しい人が多くて、母がいつも申し訳なさそうにしていて。私が「人と違うんだ」と認識したのは小学校に上がってからのことだった。

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小学校の授業が終わって、私だけ一人。友達と一緒に遊べなかった。母に連れられて向かう先は「ことばの教室」と呼ばれる場所。いつまで経っても、この場所が好きになれなかった。

ポッキーや味のしない薄いお煎餅で一生懸命に舌の動かし方を覚えても、私の「吃音」は全く治らなかった。吃音や吃ってしまうという言葉に気づいたのも、もっとずっと大きくなってから。なんで、自分だけ上手に話せないのか分からなかった。一緒に発音をしてくれている先生の優しささえも、ゆっくりと私の心を蝕んでいった。

学校では司会進行に始り、国語の時間の音読、台本がある全ての物事が嫌いになっていった。だって「これから〇〇を始めます」という言葉でさえ喋れなかったから。

緊張している訳ではないのに上手に言葉が出てこない瞬間は、きっと誰にも共感してもらえない。ただ、目の前に用意された文章を読むだけで、アドリブなんていらない。何も難しいことなんて要求されていないのに、たったの一文も声に出すことはできなかった。

__だから、早く言わないと……いけない……どんどん時間が押してしまう。

そのうち、上の学年のヤンチャな男の子から「こっこっこ」と呼ばれるようになった。結局、一文字も話せないまま時は進んでいって、同じ言葉しか言えなくなった。

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なぜ大人たちが、怒ってきたのか。今だったら、少しは理解ができる。自分の孫が恥ずかしいからという気持ちがあったり、他の子に虐められないようにするために専門のところを調べたり、本当に私のために色々なことを考えてくれた。

「今でも上手にお話はできなくて、ごめんなさい」
小学校の卒業式の練習で、自分の名前すら言えなくて。繰り返していた言葉も次第に涙と共に出なくなっていって。急いで言わないと、どうにかしないと。緊張と焦りが入り混じる度に、言葉は喉の奥で止まって消えていった。 涙だけはたくさん出るのに、お喋りができない。人と話すのが、怖くて仕方ない。

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それでも、私の世界には沢山の本があった。ページを捲る度に、外に出かけることが怖くても、色々な世界に出かけることができたから。色々な作品を読んで覚えるほどに、友達ができていって__嬉しくて堪らなかった。

「この間オススメしてもらったの面白かったよ」
そんな真綿のように優しい言葉を友達に貰うために、本を読んでいた。次第に、自分でも小説を書くようになって、今の自分に繋がっている。

緊張の先にあったのは、今の私と、どこまでも優しい幼馴染たち。苦手と向き合って、時折、挫けながらも未来の自分のために前を向いて生きている。本を通して、私は世界を見ている。 今までも、そして、これからも。