目が覚めると、頭のうえで充電していたスマホを手に取る。そこから私の一日が始まる。
スマホは日々の生活を便利にするだけではなく、無くてはならない潤いを与えてくれるものだと思っている。もし今、この世からスマホが無くなってしまったらSNSという娯楽さえ楽しめなくなる。
若者にとって現代病ともいうべきスマホ依存症が他人事ではないというニュースよりも、スマホがない世の中で生きていけるかということに不安を感じてしまう。
なぜスマホがないと困るのかを一言で表すのは難しいけれど、デジタル社会で生きていることに大きな快楽をおぼえているからかもしれない。
しかし、たまにはスマホを手放す時間も大事である。その狭くも娯楽が散りばめられている四角い画面を見続けていると、現実世界にいるのに非現実世界で生きているような錯覚に陥るという現象は、珍しくはないのだろう。
パソコンでレポートを作成してから休憩しようと、スマホを握りしめている自分に冷静になったとき、目の前の景色を忘れたくなくて私は充電コードを繋げる。そうすると、自分もスマホもいったん充電期間に入ることで、デジタルの世界から解放することを選ぶことができるのだ。
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スマホやパソコンの操作に弱い人のことを「IT難民」と呼び、デジタル社会で追いついていけないと呆れられてしまう令和の時代において、アナログの良さに気付くことも大事である。
特にSNSが普及し便利になった反面、手紙やはがきを書いて送るなどの習慣が薄れてしまっていることに寂しさを感じるときがある。部活の先輩が卒業するお祝いに色紙に寄せ書きしたり、年賀状を書いたりするのは手間がかかってコスパはよくないかもしれない。だけど、メール文書にはない手書きの温かみをもう受け取る機会が少ないと思うと、人間関係も薄れてきてしまうような気がして、落ち着かないのだ。
便利なメールが悪いわけではない。手書きすることに意味があると知ってしまったとき、単調なスマホの世界に戻ることができるのか私は不安を感じながら、孤独さえ感じてしまい鬱々してしまいそうなのだ。
スマホを手放した時、すっかり忘れかけていたアナログの温かみに触れると逆に人との繋がりが深められ、「孤独」という言葉の意味さえ忘れられるのかもしれないと私は考えていた。
実際にスマホを手放すのは充電するときくらいで、数分程度のことである。
そんな数分の間にも「スマホ、どこに置いたのだろう」と探してしまう自分が滑稽で、情けなく感じることもある。
スマホの世界を知らずに生まれてきたけれど、気づけばスマホとともに人生の半分以上を過ごすことになったデジタル社会のなかで、埋もれずに生きていくためにスマホを手放す時間も大事である。
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ピコピコとSNSの着信が鳴ったとき、私は正直うんざりしていた。特にLINEのグループを作って話すなんていうコミュニケーションは、今となってはどうでも良いものとなってトーク履歴の一番下で眠っている。
けれど、「LINE交換してもらっても良いですか?」という誘いで人との距離がグッと近くなって話が広がるのはスマホの良いところなのだ。もし私がスマホなんて開発されていない昭和の時代に生まれていたとして、気になる人に出逢ったとき「連絡先教えてくれませんか?」と尋ねる勇気はない。「LINE交換してもらっても良いですか?」と尋ねることはできたとしても、相手の自宅の電話番号を聞く勇気は一ミリも湧いてこない。
こんな誘いまで便利にしてくれるスマホは、一瞬手放すことができても永遠に手放すことはできないのだと思う。
スマホを所有することで得られた便利さと、アナログ時代には考えられなかった「便利だからこその孤独感」が私たちに、他人事のようで身近に潜む闇について考えさせる時間を与えるのだろう。