写真との距離感。それは人の心とのの距離感だと思う。

先のエッセイにも書いたが、私は趣味でポートレート撮影の被写体をしている。そうしていると、面白いことに4種類の人に出会うことが増えた。さて、どんな人か。

◎          ◎

まずひとつめには、通りがかりに笑かしてくる変な、いや、面白いおじさんだ。「笑え、もっと笑え、笑顔が欲しいんだから」。彼らはなぜかカメラマンさんの後ろからこちらを全力で笑わそうとしてくる。そうして出来上がった写真を見ると、大口をあけて一般的なかわいらしさとは縁遠くわはわは笑っている。おじさん、ありがとう。とても私らしい自然な笑顔です。写真を通して、なぜだか繋がった気がする。不思議な気分である。でも悪くない。何なら嬉しい。

ふたつめには、「思い出に貴方を撮影してもいいですか」という観光客の方だ。外国から来たおじいさんから日本人のおばさんまでさまざま。これは純粋に嬉しい。あなたの感性にひっかっかって、記憶の中にとどめてもらえることがとても嬉しい。ありがとう。名も知らぬ外国のおじいさん、群馬のおばさん。きっと私はこのことを一生忘れないことでしょう。思い出の一ページに加えてくれてありがとう。また、写真を通して彼ら彼女らと繋がった気持ちである。とてもあたたかい。

◎          ◎

みっつめには、撮影してくれるカメラマンさん自身だ。老若男女様々な年齢の方と、外を歩きながら時になんの意味もない話を、あるいは明日の天気を聞くような調子で相談をする。撮影してもらうその時だけのような繋がりの関係に見えても、1カ月後あるいは1年後に再度撮影してもらうこともある。そうして外見やポージングの成長だけでなく中身や考え方も「大人になったね」と言われることの嬉しさ。家族以外に見守ってくれる人が出来ることのありがたさ。こういう意外と小さく見えて大きなことに救われている。

◎          ◎

よっつめは今も悩んでいることにまつわる人について。ポートレート撮影に反対する家族との関係だ。父母は私がポートレート撮影をすることを好まない。確かにSNSを通して不特定多数の人に出会い、撮影をしてもらうこのポートレート撮影で、事件や事故に遭う人もいる。セクハラだってある。それを心配してくれているのも親心だと分かっている。だけど私は今の冷戦状態を貫いている。私はカメラを通しての出会いが楽しい。もともと、うつ病を改善するために始めた朝散歩を兼ねたこのポートレート撮影で、友人も出来た。また、老若男女問わないカメラマンさんから様々な価値観の話を聞けて嬉しい。そして人と会う約束があるからこそ、なんとか外に出て行こうという気持ちになる。確実に私を支えてくれているのだ。

父さん、母さん。心配かけてごめんね。でも、私はもう、あなた方の子どもであって子どもではないんです。どうか、見守っていてください。無理だと思ったなら、諦めてください。