私は三半規管が弱い。それなのに会社までの通勤時間は1時間半もある。毎日電車に酔わないか心配だ。

電車の中ではスマホの画面を長時間見ることができない。見るものといったら窓の外の空か電車の中の人くらいだ。電車の中で動画を見ている人を見かけると少し羨ましくなる。「ああ、この人は三半規管が強いんだなぁ…」そんなことをいつも考える。

周りの目も気にせず、動画を見てにんまりとしている姿を見ると、何だか勝手に少し恥ずかしくなる。共感性羞恥とやら何かだろうか。

私は電車の中では半ば強制的にスマホを手放さなければならない。だから少しの羞恥心すらも感じずスマホに没頭している人が羨ましくなるのだ。

電車に乗っている時間スマホには没頭できないが、人のことは何かと観察してしまう。「きっとこの人は忙しいんだろうな」とか、「疲れているのに動画を見る余裕があるんだな……ん?いや、多分それが癒しになるということなのか」とか。

本当にどうでもよいことばかり考えている。誰かに何を考えているのかと聞かれてもあまり答えたくないことばかりだ。

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社会人になったものの、ビジネスとか仕事とか経歴のこと以上に他人のことばかり考えている。そりゃビジネスマンと話が合わないわけだ。いっそのこと社会人という鎧を脱いで、思想家・空想家とでも名乗ろうかな。そうはいっても大した思想もないしな…

こんなことをぐるぐる考えている内に1時間半の通勤がいつも終わってしまう。電車にも酔わないし、一石二鳥だろうといつも自分に言い聞かせる。二鳥でも何でもないのだが、まぁいいだろう。普段、考えすぎる私はスマホを見ていなくても考えすぎのようだ。

そんな私でも景色に感動しているときには考えることを忘れることもある。

雨上がりの虹、電車が川の上を渡るときに見える白鷺、新しくできた綺麗なビル、夜の街路灯。

電車の中でスマホの画面を見ることができない私は人を観察するか、電車から見える景色に心を動かすしかないのである。中でも夜の街路灯はお気に入りだ。電車が動いていて、それに合わせて街路灯の光も一緒に動いてその光がなびいているように見えるのだ。

仕事に疲れた帰りにこの光を見るととても癒される。まるで自分もこの光たちの一部だったような感覚にさえなる。

自分自身が電車の窓から見える景色の一部だったとしたら、そう空想するだけで救われる。現実から目を背けられる。これはスマホを手放しているからこその恩恵である。

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長々と自らの三半規管の弱さについて嘆いてきたが、そのおかげでスマホを手放す貴重な時間ができていることも確かだ。その時間で物思いにふけり、空想の世界に入り込む。私にとってはとても大切な時間だ。

考えすぎるのが弱点の私だが、そのおかげで電車に酔わず乗っていられる。何事も良い面と悪い面の両面があるということなのか、私が私である所以ということなのか。答えなどないが、またこんなことを考えながら通勤電車をやり過ごすのだろう。

スマホの情報はわかりやすい。簡潔で論理的で私には少し難しい。やっぱり通勤電車をやり過ごすには、スマホの情報よりも目の前のものから空想を膨らませている方が私には性に合っている。