近年、少子高齢化が進む中で、介護へのニーズは爆発的に増えており、介護施設や家庭での介護はもちろんの事、老老介護、ヤングケアラーというのも発生するくらい介護は社会で必要不可欠となっている。

それによって、様々な人の人生に何かしら大きな影響を及ぼしているのは間違いないだろう。事実、職場や様々な所で介護の不安や悩みを耳にする事も多い。自分1人だけの人生でなくて第三者の最期までの人生を考えるのだ。それは不安にもなるだろう。

「人の人生は赤ちゃんで始まり赤ちゃんで終わる」なんて誰かが言っていた。

確かにその通りだなって思う。若々しい時代から年老いていき、自分の体が思うように動かなくなって、記憶も曖昧になっていく中で少しずつ終末へと向かっていく。誰もが迎えるであろうそれに我々はどう付き合っていけば良いのだろうか。それは永遠のテーマにも思える。

そんな中で1つ母の話をしたいと思う。母はまさに介護ばかりの生活でそれを全うした人である。そんな母が、子どもながらの自分からどう見えていたかここに記したいと思う。自分の1番身近な人がしてきたとてつもない大きな功績を、是非とも聞いて欲しい。

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我が家の母は自分が生まれてスグくらいから介護生活が始まり、育児と家庭と同時進行でこなしていた。

祖母は病で週3日の通院が必須で施設の整った病院で治療を受ける為、母は片道3、40分かけて送り迎えをしていた。治療中に家に戻り、洗濯物を干し、掃除をして·····なんてやっていればスグに迎えの時間だ。計2回の往復である。

それが終われば休息·····なんて事も無く、祖父母のお昼の支度をして、自分も食べ、また家事をして、時折近くに住んでいる母の両親(自分にとっては祖父母)の様子を見に行き、夕方になれば自分達の迎えがあって、夕飯の買い出しをして夕食を作る。

そんな毎日を送っていたのだ。「自分がやらなきゃ!」という責任感の強い母であったから誰かに頼る事はせず、全て1人で動いて休み無く働いていた。もちろん、自分の時間なんて無かっただろうし、リフレッシュするなんて頭もなかったと思う。

だから、自分の中で母の笑顔というものが記憶にない。母はいつも必死で鬼のような顔をしていた。その表情は苦しさや忙しさ、苛立ちもあったり、余裕の無さからだったと大人になった今ならその大変さを身に染みて感じるが、幼少期の自分にはそれを読み取る事は難しく、いつも怖いなと思ってしまっていた。

だから、今でも母の表情が気になってしまうのはきっと長年培われた癖なのだろう。

もう1つ記憶に残っているのは母親の必死の背中である。夕方になり、夕飯の支度や他の家事に追われている母はまさに鬼気迫る状態で、なんとも近寄り難い雰囲気であった。そんな母に元気になって貰いたくておちゃらけてみたり、楽しませようとしたがそのアプローチは上手くいかなかった。

母の気持ちが今なら分かる自分があの時に戻れるなら、何が出来ただろうか。

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こんなに忙しい母はいつも1人で全てと戦っていた。それを30年続けているのである。こんな過酷な環境下で家庭が崩壊せず、ここまでやってこれたのは母の計り知れない大きな努力の賜物と言っても過言ではない。

今でこそ福祉サービスが多少充実して来ているがニーズがあまりにも多く対応しきれていないというのが現状であろう。

今起きている現状を30年前からやって、体も心も大きく壊さずやってきた母には尊敬の念しかない。そして、介護生活、育児にも一段落ついた今だから母にはのんびりと好きな事を見つけて楽しんで欲しいと思っている。

今からでも自分は母の何かを楽しむ顔、笑顔が見たいと思っている。

その為に自分が出来る事を考えるのが今の自分に出来る精一杯の親孝行だ。