草がやさしく風に揺れるのが窓から見える。シェアハウス(古民家)のキッチンには柔らかな春の光が差し込んでいる。ばあちゃんたちが畑に出ていく時間に、私とあの人は揃ってダイニングテーブルに向かい合っていた。示し合わせたかのように同時刻に、他の住人たちよりも早く起きていたのだ。まるで二人きりで朝食を食べるためかのように。実際にそうだったと思う。
料理が得意な彼は気づくとさっと慣れた手つきで卵を割っていた。卵焼きか目玉焼きになっていたかな。後になって、目玉焼きを作るときに少量の水を入れることを教わった。料理ができない私はこんな初歩的なこともわからなかった。
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それから、戻したわかめをもやしとナムルにする。ラー油がピリッと効いた定番メニューだったね。わかめに困らない生活をしていた私たちは何度も何度もナムルを食べていた。朝だというのにあっという間に作ってしまう彼の手際の良さに見惚れながら、私がやったことといえば動線の合間を縫ってコンロでやかんの湯を沸かし、お茶を淹れたことくらいか。スーパーで買った安い茶葉と百均で買った白い急須で。
いつの間にか食パンも焼かれていたな。住人の間で、食事を一緒にする決まりはなかったし、個別に食べたいものを食べるのが大人の共同生活だと思って期待はしないでいた。一緒に作って食べられたらそれはラッキーだと。それなのに、彼は当たり前に全部を半分にしてくれた。それはこの日常がずっと前から存在していて、この先もずっと続いていくような気にさせた。私は永遠ってこの一瞬のことをいうんだ、と夢見心地に思って、半分にしてくれる彼を好いた。そしてマグカップ二つにお茶を注いだ。
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この広い家にただ二人だけでいるかのような心持ちで、春の朝を噛み締めながらめいっぱいゆっくり過ごした。若いし夫婦でもないのに老夫婦みたいだねと笑い合った。思えばこれは、出会ってさほど日も経たないある朝、庭で火を焚き湯を沸かしコーヒーを飲んだときから始まっていたように思う。どこからかキャンプ用の椅子と焚き火台を引っ張り出してきて、いつからか袋に詰まっていた湿気った木の枝に火をつけていた彼。
その様子をたまたま見かけたのか、「コーヒーを飲もう」と誘われたのか経緯は全く覚えていない。しかし、台所にやかんを取りに走り、それを火にくべるとたちまち黒くなってしまって、後で必死に磨いたことをよく覚えている。おそらくこのとき、二人は二人で過ごす朝の豊かさを知った。焚き火で淹れるコーヒーの美味しさに、同じ釜の飯を分け合う喜びに出会ったのだ。
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けれども幸せはそう長く続かなかった。暮らす場所もすっかり変わってしまった。疎遠になって久しいあるとき、たまたまシェアハウスで数日一緒になった。今度こそ個別の食事が前提だと肝に命じ、期待しないことを徹底した。
朝食を済ませお茶を飲んでいると、彼が切り分けたりんごを二つ、皿に載せて差し出してきた。前々から彼の手際の良さはぶっきらぼうさと紙一重だと思っていたが、まさにそのぶっきらぼうを丸出しにして、私のありがとうの返事も待たずに突き出して去った。どうやらあのあたたかい朝は幻だったらしい。そうとしか思えない。切り分けられた二つのりんごをたしかに私の手の中に残して、あの人は遠くへ行ってしまった。りんごは甘かった。