大学生の終わりだったか社会人になりたての頃だったか忘れてしまったけれど、自宅の古いデスクトップパソコンの中に、自分がまだ中学生くらいの頃の写真を見つけたことがある。
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当時の私が写っているのだが、少しあおり視点気味に写ったうら若い私は、みすぼらしいくらいに冴えない容姿をしていた。どこか哀愁を纏ったおじさんのようなその写りには、醜さへの嫌悪や、多感な頃の自分に対する後めたい感情をすっ飛ばした、絶妙なユーモアがあった。
一緒に見ていた母と二人で笑い転げ、そしてひとしきり笑った後で「あぁ、この頃の私は自分がすごく醜くて汚いと思っていたっけ」などと懐かしく思った。
もちろん、今でも自分をそう思うことがある。
小さい頃から老け顔で、おまけに口角をあげて笑うのが下手だったので、小学生の頃からまるで四十路のような顔立ちの写真が多かった。
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私は自分の顔を、粘土を手のひらで転がして丸めたようなもったりした凹凸と丸みがある顔だと思っている。
七五三の時も成人式の時も、衣装や写真それ自体は綺麗なのだが、どうにも自分の顔だけが不釣り合いなまでにみっともなく見えて仕方がなかった。
特に七五三の時、幼い私は早く化粧を取りたがったそうだが、今振り返ってみると、醜い自分に不釣り合いな芸術品を身に纏うのが畏れ多くて恐縮していたように思う。自分から綺麗なものを早く切り離して、元あった美しい場所にお返ししたい、とすら考えていた。
こんな風に、小さい頃から自分の容姿が優れていないということはうっすら自覚していたが、奇跡的にそれで他人にどうこう言われて嫌な思いをすることは無かった。なので、私はとりあえず可愛いものや服にも興味を示す女の子として振る舞うことができた。
でも、それを楽しいと思いながらもどこかそんな自分に対して、うすら寒いような冷めた思いも抱えていたような気がする。
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中学に上がる頃は、特に油脂性の肌質やニキビ、癖のある量の多い髪に悩んでいて、自分が毎日頭のてっぺんからつま先まで、重油まみれの海鳥のように脂に覆われているんじゃないのかという不快な感覚が四六時中するような気すらした。
それでも、本当に病んでしまうようなところまで落ち込まなかったのは、自分が醜いということを自覚して、そこに心を割くのをやめよう、とひとまず諦めたからだと思う。
外見を変える、あるいは磨くことには相当の学習や努力がいる。YouTube、TikTok、他のSNSなどで輝く、女の子たちや男の子たちの研鑽は本当に美しいと思う。私が諦めて目を背けた美醜について真正面から立ち向かい、楽しく美しく、懸命に学んで真摯に遊んでいる人たちに、私が敵うことは一生ないだろう。
私は自分の外見を美しく磨くことに見切りをつけて、美しいと思うものを表現したり、そう感じる感性や物の見方を磨くこと、そして私が美しいと感じる物事の考え方や振る舞いを身につける事に目を向ける事にしたのだ。
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規則正しく生活をして栄養を摂り、あらゆるメイクや化粧品を試し、ファッションや色を研究することのかわりに、家族や友人の振る舞いを観察し、他人の話に耳を傾け、美しい芸術や文学作品に触れる事に私は時間を費やしてきた。
不思議とそうやって手に入れた物の見方や知識、そして美しいものたちは私の内面を柔らかく変化させ、身だしなみや清潔感を保つファッションやメイクは私にも必要なのだと受け入れられるように自分を変化させてくれたような気がする。
自分の持って生まれた醜さに向き合わなかった私は怠惰だと思うし、これまでに磨いてこなかった容姿は決して優れたものではないけれど、背を向けて向かい合った自分の心への探求で手に入れたものが確かにある。
そしてそれは、今でも冴えない私の姿を少しだけ良いものにしてくれている。