写真は好きである。技術や才の話は置いといて、好きか嫌いかで問われたら好き。

ついでに言うと、私は字を書くのが好きである。小学生の頃から書道を習っていたのもあるが、母も書が好きで、その理由を尋ねたことがある。

「文字ってさ、二度と同じものは書けないんだよ。そこがいいよね」

とのことだ。今ここで私の名前「瀬璃」を10回書いてみる。すると同じ字を書いたはずなのに、10個ともどこかしら違いがあるのだ。筆圧、曲線、角度、余白。全てにおいて全く同じものは生み出せない。

同じ理由で絵を描くのも好きだ。恐らく、写真を好きな理由も同類。画角や光の入り方、ピントの合わせ方などの要素がすべてカチッと合わさってまったく同じものを撮るなど恐らくできない。連写しても、世界はコンマ単位で変わっている。

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そんな前置きをしつつ、私はわざわざ「エモくて映える写真を撮る方法」という本を買うくらいには、写真を上達させようとしていた。良い写真を撮れる人ってカッコイイな、と漠然と思っていたが故に起こした行動で、大した理由はない。その成果をあげるためだけのインスタのカメラ垢も作ったが、フォロワーは友人のほんの少数。完全に自己満足の世界である。

上手な写真の撮り方というのはある。書道でも綺麗な字の書き方というのはあって、どの道においても正解の方法というのは存在するのだ。

しかし、写真は、狙って撮ったものよりふとした瞬間撮れたもののほうがよかったりする。これは書でも絵でもなかなか味わえない面白い感覚だった。

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友だちを被写体に決めて「はい、チーズ」と声をかけるとほぼ反射のように笑ってポーズを取ってくれる。画角もいい、自然光も最高。でももう一枚撮りたいな、と思ってシャッターを切った瞬間、友だちは終わったと思って動いてしまう。見事にブレる。ちょっと!とお互いに笑いながら今撮った写真を見てみると、あまりにも自然な笑顔が躍動感に溢れていて良い。味があるのだ。

かっこつけるより自然体のほうが良く思えるのは、より生きている心地がするからだろうか。そう思うようになってから、私は字に対しても、ペン字講座を真似て書いたものより、その人独特の癖字を見る方が好きになった。エブリワンじゃなくてオンリーワン。戦略より瞬発力。芸術は爆発だ、と謳った岡本太郎の真髄を、私は写真を通して知れたような気がする。

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とはいえ、そう思えるのはやはり基礎ができてこその話だろう。画角を決めて、モデルを配置して、自然光を入れて、ちゃんと撮った写真。に、付随するオフショット。そういうのが良いのだ。ふざけてたら生まれただけのナンチャッテな芸術では意味が無い。この世の誰しもが芸術家になれる可能性を秘めているが、誰でもなれるわけではない、と写真を通して見た芸術から思うようになった。

私のインスタにはそうして「完成系」の写真と「芸術的」な写真が一緒に投稿されている。フォロワーは友人のほんの少数、自己満足な私の芸術を生みだしてくれるモデルたちだ。