「ヴッ」と左手の中で小さくiphoneが震える。1秒の時差もなく親指が、ロックを外す。LINEを開いてみると、やはり家族グループLINEに姉が投稿していた。「今日のみく便です」というメッセージの後に、生後3か月の姪っ子の写真が何枚も続いている。
まん丸の輪郭に、誰に似たのかと家族内で話題になった、くっきり二重の黒目がちなおめめ、ぽてぽてしていて零れ落ちんばかりに美味しそうなほっぺ、まだ存在感のあまりない髪の毛に、おちょぼ口。少し不思議そうにカメラを見上げるその姿に、思わず「かわいい」と呟いてしまう。にやけてしまう。まだ、オフィスで仕事中なのに。あと3時間も作業は残っているのに。
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生まれたばかりの姪っ子、みくは、生まれたその瞬間から、すぐに我が家のアイドルの座に就いた。「もう定期買っちゃえば?」と私や弟から茶々を入れられるほどしょっちゅう会いに行く母。デレデレになった大学教授の父は、「赤ちゃんが言語習得をする過程を学問的なアプローチで研究したい」と言語学の文献を読み漁るなど照れ隠しの仕方も自己流だ。
29歳にして叔母になった私は、「可愛すぎるのでアイドルデビューも不思議ではないが、やはり芸能界は怖いところだから、芸能界入りは止めるべきか」と本気で心配し、普段はクールな弟も姪っ子動画を無限ループ再生してニヤニヤしている。
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ああ、可愛いなあ。そう何度も姪っ子の写真を眺めていくうちに、私はあることに気が付いた。自分が映っている写真と姪っ子の写真との違いだ。それは「ありのまま/自然体」か「ありのままを意識した自然体風の別の何か」である。
今年の10月末に、高校の友人3人と、青森は白神山地にハイキング旅行に行った。10月末の白神山地は紅葉まっさかりで、私たちは感嘆の声をあげながら、何枚も写真を撮った。写真を撮るうちに、友人が怪訝そうに言った。「まよってどの写真も同じ顔だね」と。私は「ええそうかなあ?」とお茶を濁す。図星だったからだ。
私はカメラを向けられたときに、いつも顔の右半分が前面になるように角度を調整する。少し顎を引いて、口角を上げ、目はがん開き、やや上目遣いでカメラを見つめる。そうすると、彼氏が友達に私を写真で紹介するときに、「え、めちゃくちゃ可愛い彼女じゃん」というコメントを貰えるほどには、映りがよいのだ。
だから、いつも同じ顔をする。それは、「こう見られたい」「こう思われたい」という欲望MAXの、ありのままを装った、別の何かだ。トリックを見破った友人がいるように、打率は10割ではなく、8割程度といったところか。でも、その8割の「可愛い」のために、私はいつも同じ顔を「作る」。
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ひるがえって、3か月の姪っ子は、当然写真映りなど気にしない。写真映えや自分の映りなど念頭になく、カメラではなく、カメラを通りこしてカメラを映す母である姉を覗き込む。「これってなあに、お母さん」というように。
またはカメラを向けられても、意に介さず、泣きわめき、眠り、笑い、あやされ、おっぱいを飲む。そこに「こう見られたい」「こう思われたい」という意図などなく、カメラに映る邪気や思惑がないその姿は、ただただ自然体だ。そしてその自然体のありのままの姿に、私は美しさすら覚えた。それは私が大人になって失ってしまったものの一つだからだ。
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2022年2月にかがみよかがみに出会い、それからほぼ毎週エッセイを投稿した。たまに投稿をさぼることはあっても、長期的に投稿しないことはほぼなかった。その私が、この2か月間エッセイを1本も書かなかった。それは、部署で退職者が続出し仕事がそれはもう忙しかったり、身内で不幸があったり、旅行や引っ越しがあったりなど、「エッセイに取り組む余裕と時間がなかった」と言えばまあそうなのだろう。でも、それだけではない。
疲れてしまったのだ。自分が「こう読まれたい」「こういう書き手だと思われたい」という、読み手を意識した文章を、無意識的に書いていることに気が付いた。そしてそれに疲れてしまったのだ。
『障がいや難病を患い暗い過去もあるが、今はそれを乗り越えて、軽妙洒脱なエッセイも重めのエッセイも書くことのできる、幅の広さとウィットが魅力的なエッセイスト』だと、私は見なされたかった、読まれたかった、思われたかった。
それは、そのような自分がかっこいいと思っていたし、以前そのようなエッセイを書いたときにバズったことがあったからだ。「なりたい自分」と「こう見られたい/こう思われたい自分」が一致したとき、私は甘美なまでの気持ちよさを覚えた。それは写真も一緒で、「自分が可愛いと思う映りの自分」と「可愛いと思われる映りの自分」が一致したときも、満ち足りた気分になった。
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しかし、他人の評価軸で生きていると、今度は評価されなかったときに、不安になる。不快になる。不信になる。
「こないだと同じような内容でエッセイ書いたのに評価されなかった」「こういうの好きだと思うのにバズらなかった」または「このいつもの決め顔最近褒められてない」など。それはとても苦しいものだった。
一度バズってしまったエッセイの甘い記憶が、この写真のまよかわいいと言われたあの顔の角度が、私を固定する。こう読まれたい、こういう作者だと思われたい、またはこんなにも可愛い子だと思われたいという気持ちが私を縛ってしまうのだ。それはありのままからは一番遠いかたちだ。そして、何より難しいことに、ありのままでいたいと思った瞬間、私たちはありのままとして呼吸することができなくなる。
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2か月休んだエッセイを再開しようと思う。残りの2割だった友人は、私が大口開けて爆笑している写真を見て、「こっちのまよの方が可愛いじゃん」と言う。そして今日も更新される、本当の意味でありのままな姪っ子の写真を見る。今日も他人の評価が気になる私だけれど、こんなエッセイから復帰してみようと思う。