私のおまもりは、スマホアプリの日記である。
私が日記のアプリをダウンロードしたのは、高校二年生の春である。高校二年生というタイミングには理由がある。
私はそれまでの人生で「高校二年生」という期間に途轍もなく憧れを持っていた。私が好きなアニメや漫画では、高校二年生を舞台にしている作品が多い。そんな風に私の「高校二年生」も、何かドラマチックなことが起こるかもしれないと期待していたからだ。
今考えるとオタク過ぎて非常に恥ずかしい。高校二年生の間に起こったことは忘れたくないと思い、私は手書きより手軽に書けるだろうと思って、スマホで日記を書くことを決めた。
しかし、やはり二次元と現実は別物だ。当時の私に教えてあげたい。私の高校二年生は、笑えるほど特別なことは何も起こらない、平凡な一年間だった。だが、大学三年生になった今でも書き続けているくらい、日記は自分の中で大きな存在になっている。
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日記と言っても、私は毎日書いているわけではない。基本的には思い付きで、忘れたくないと思った出来事や人から言われて刺さった言葉、経験から学んだこと、その瞬間の鮮やかな感情を、月に平均十回前後の頻度で書いている。
なんとなく考えたことをバスに乗っている時に数行書き留めることもあるし、強く刺激を受けた日、自分の誕生日や正月などの節目には、布団に入ってから何スクロールも数時間に渡ってレポートのような日記を書くこともある。
どうでもいいことだと今食べたいもの、映画の感想、肌荒れがヤバいとか、課題が終わらない絶望、彼氏の惚気、就活の不安、太った痩せた、オールジャンルで重要度も上から下まで、非常に雑多である。誰に読ませることもできない。
なぜこの気分屋な日記が私のお守りになるのか。それは、どんなに楽しいこともどんなに辛いこともすべて一過性のものであり、私はそれを一つ一つ乗り越えてきたのだと再確認することが出来るからである。
恥ずかしながら、私はメンタルが弱い方だ。人よりも苦しい思いをたくさんしてきたと思う。自己肯定感も平均以下だと思う。そのせいか、無意識にネガティブなことばかりを書き留めた日記になってしまう。
実際のところ、ネガティブ七割、ポジティブ三割くらいである。しかし、それでいいのだ。読み返すと、その時々の自分が直面している苦難に対して、どれだけ苦しんでいたかを鮮明に思い出す。
病みまくって、どれだけ勉強しても二十四時間ずっと不安でもう生きていくことが辛いと、受験生だった高校三年生の冬の日記に書いてある。人間関係がうまくいかない、すぐ苦手な人を作ってしまう自分が嫌いだと、新しくバイトを始めた大学一年生の夏の日記に書いてある。とんでもない長文を書いたのに、書いてから半年経っても思い出したくなくて読み返すことができなかった日記もある。ちなみに今も全然読み返したくない日記もある。
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けれど今、結局幸せに生きている。今の私は、比較的穏やかに、健康的に生存できている。日記を読み返すと、酸いも甘いも飲み込んで、私という人間を構築する一部に消化している自分を確かめられる。
書き溜めた数万の文字が、私の選択は正しく、葛藤は無駄ではなかったと教えてくれる。誰の誉め言葉や慰めよりも、自分が戦ってきた記録は自分のすべてを肯定してくれるのである。
楽しかった時期の日記は、読み返すだけで楽しい気持ちになるし、これから先も生きていれば、予想すらできないような楽しい体験が待っているかもしれない、と未来へのモチベーションになる。友達や先輩後輩、家族を大切に思うように、まだ出会っていない誰かを好きになることが出来るかもしれないと思うと、とてもワクワクする。
言語化するとベタな綺麗事のようになってしまったが、私は日記に本当に何度も救われてきた。過去を肯定して未来に希望を持つことで、今を懸命に大切に生きなければならないと思うようになったからだ。
私の日記は、これから先どんなことが起きても自分なら大丈夫だと勇気をくれる、未来で楽しいことが待っていると教えてくれる、大切なお守りなのだ。