めんどくさく生きてみる。 

大学に入学して一年、私は自身のコミュニケーション能力の低さに絶望していた。
考えてみればその原因はそれまでの人生にあった。

私は小・中・高、すべて姉と同じ学校に通った。習い事まで同じだった。常に姉の築いたコミュニティに受け入れられ、姉から仕入れた情報によって新しい友達を作った。上級生とすれ違えば高確率で「○○の妹!」と呼ばれた。それだけでどこか自信をもって同じ学年の子たちとも積極的に関われる、そんな単純な子どもだった。「姉」という後ろ盾のもとに、小・中は難なくすばらしい友達を得た。加えて、中学で私が入学したのは私立の中高一貫校だったために、中学校でつくられたすばらしい人脈をそのまま受け継ぎ、高校までもぬくぬくとぬるま湯の中で生きてきてしまったのだ。

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そんな中、いきなり、「大学」という大海原に投げ出された。後ろ盾もなく、自分自身の力だけで友達を作らなければならなかった。入学式だったはずの式はいつの間にかあちらこちらで繰り広げられるインスタの交換式と化した。次々とサークルの新歓に出かけていく同級生たち。恋人、バイト、飲み……。そんな人たちを見ているうちに一年が過ぎた。

ここまでだと、「私の視界を広げたもの」は「大学入学」ということになるのだろう。しかし、ちょっと待ってほしい。確かに「大学入学」は私の視界を広げはしたが、私はそれを受け入れられていない。

一年大学に通って、重大な事実に気が付いてしまったのだ。
私は「めんどくさい人間」であった。

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高校では気心の知れた菩薩のような友人たちのおかげで直視することなく過ごせていた。しかし、本来私は、毎日帰りの電車で反省会を繰り返す人間なのだ。自分の放った言葉を反芻し悔やみ、相手にかけられた何気ない言葉を深読みする。そして、自分のコミュニケーション能力に自信が持てなくなるとそれは悪化した。後で後悔することが怖くなり、できるだけ話さないようになった。誰かを誘うとなんだか絶対に楽しませなくてはいけないような使命感を感じてしまって、結局一人で出かけた。でも、周りの視線が気になって音楽をずっと聴きながら歩いた。ワイヤレスイヤホンの充電が切れて、ただの耳栓になってもつけていた。

そんな時だった。一冊の本に出会った。

オードリー若林正恭さんの「社会人大学人見知り学部 卒業見込」という本だ。 

「卒業」ではなく「卒業見込」というタイトルにも若干見られるように、若林さんは「めんどくさい人間」であった。スタバで「グランデで」と恥ずかしくて言えない。休暇中に温泉に浸かっていても、心配事が湧いてきて、温泉でホッとしている自分を演じているような気分になる。といった具合に。

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すべてを読み終わって、私は、安心していた。自分だけではないんだと思った。そしてこんなにもすごい人がこんなにもめんどくさいのだから、私だって少しくらいめんどくさくたっていいじゃないかと思った。むしろ、このめんどくささは日本トップの芸人さんとおそろいではないか!我ながら単純である。最近の私は考えすぎることが多いし、めんどくさいけれど、中学生の時に姉の人脈を自分の力のように感じて自信を持った単純な私も確かにまだ存在していたのだ。

この本に出会ったことで変わったことはあまり多くない。しかし、大学入学によって完全に自信を失い、人と関わることを拒絶していた私は、私の「めんどくささ」を受け入れることが出来るようになった。そうするとなぜか、人と関わることが前ほど苦ではなくなった。友達はそんなに増えないが、今側にいてくれる人を大切にしようと思えた。この本と若林さんとの出会いは私の「視界」というよりも「喉」を広げて、息をしやすくしてくれたように感じる。