『黙って喋って』(ヒコロヒー/朝日新聞出版)

※朝日新聞出版社よりご恵贈いただきました。

学生時代「何歳で結婚したい」「有名人と結婚したい」なんて話す友人たちを見て、私はまだそんな想像が出来ずにいた。先の長い人生の中で、どこかで好きな人と結ばれて、子どもに恵まれて。テレビドラマでよく見る母親になるのだろうとぼんやり考えていた。

しかし友人たちは、気づけばその理想とは異なる人生を歩んでいる。あんなに男性アイドルに熱を上げていた友人も、推しとはまったく異なる容姿の男性たちと籍を入れていた。結婚したり、同棲したり。先を歩く友人たちを横目に、お酒も楽しめない私はジンジャーエールを片手に相槌を打つことしかできずにいた。

彼女たちの話では、いつも男性は悪役だ。家事がまともにできずに、自分の趣味を優先させて、一緒に楽しく過ごしたい女性側を傷つける。しかし、浮気や不倫であれば相手がいるわけで。浮気や不倫が明るみになる分、悪の女性も存在するのだ。

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以前の職場に、不倫が社内で半公認となっているカップルがいた。男性側が役職持ちであったため、それを咎める人はとうにおらず、噂によれば交際歴はもしも子どもがいたなら大学を出て独り立ちをするほどであった。課長はそれを「純愛だよ」なんて面白おかしく笑っていたが、それはあながち嘘ではないのだと思う。

綺麗な女性だった。式典のような皆が似たような服を着る場でも、髪をきれいに結い上げ、少し人とは違うデザインの洋服を華麗に着こなす。一人でいる人がいれば声をかけて、きわどい言動をしたおじさん上司の尻ぬぐいをしつつ、後輩のダメな部分は指摘をする。入社まもない私にとっては他部署の憧れの女性だった。

それを知ったきっかけはなんだっただろうか。本町の居酒屋で直帰の上司と飲みに行った際に、同僚の結婚話を自分から聞いたような気もするし、お酒が回って気分が上がった上司が勝手に話し出したような気もする。まだ20代前半であった自分には、理解しがたく、同時に嫌悪感を覚える出来事であった。

その日から些細なことが気になるようになった。特段急ぎでない仕事を異なる部署の2人が作業しているだとか、男性が帰った3分後に席を立つだとか。最終的には、男性が女性を呼ぶ声が違うこともわかるようになってしまったのだから、印象というものの厄介さを感じずにはいられなかった。

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結局私はその職場をすぐ離れてしまったし、2人にどんなラブストーリーがあったのかは知らない。しかし、まっすぐ仕事に取り組み女性からも憧れられるような彼女の左手の薬指には何もないことが、すべての答えであるような気もした。

大人はきっと毎日何かを我慢している。仕方がないと諦めて、お酒と一緒に愚痴や不満を飲み込んでいるのだ。彼女にとっては、それが『一番になる』ことだったのかもしれない。決して不倫が許されるものではないと理解しつつ、彼女の心情を思うと、少しだけ胸が痛んだ。

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私に譲れない生き方があるように、相手にだって譲れないものがある。そんな当然のことを理解しているようで、うまく咀嚼しきれずにいる。譲れないものなのか、何も考えていない甲斐性なしのひと言なのか。彼と向き合うたびに、考えて、考えて言葉を紡ぐ。今の私に足りていないのは、そんな相手に対する誠実さなのかもしれない。

ずっと一緒にいたいからこそ、言える言葉と言えない、言えなかった言葉。恋の駆け引きとは異なる大人同士だからこその心理攻防が、この一冊でほんの少し垣間見えた気がした。

駅ですれ違うカップルの、会社のエレベーターで何気なく目に留まったあの人の、知らない世界の裏側を少しだけ。胸のどこかで感じたことのあるようなこの気持ちを、普段は飲まないお酒とともに流しこんでしまいたいと思った。

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」1月31日発売

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」が1月31日に発売されます。「ヒコロジカルステーション」で連載中の小説を加筆し、さらに書き下ろしも。朝日新聞出版。1760円。