『黙って喋って』(ヒコロヒー/朝日新聞出版)

※朝日新聞出版社よりご恵贈いただきました。

忘れかけていた記憶の端っこをふいに指でつままれて、そのままずるずると引きずり出されるような読書時間だった。
しわくちゃでところどころ色褪せているそれは、あんまり美しい記憶とは言えない。

コーヒーだかお茶だかをこぼしたようなみっともないシミもにじんでいる。刻まれている文字を見れば、何をそんなに丁寧にと取り繕った不自然さが窺える箇所がある一方で、いや読めねえよとツッコミを入れたくなるくらい殴り書きな箇所もある。

あとがきに記されていた、著者・ヒコロヒーさんの言葉を借りれば「愚鈍」な記憶たちだ。

◎          ◎

愚鈍な記憶その1。
蔑ろにされているのかもしれないと感じつつも、それでも恋人から離れられなかったあの頃。
最初は自分が与えるものと同じだけの見返りを求めようとして、苦しんだ。そんな苦しみを紛らわせようと、次第に「赦すことこそがきっと真の愛なんだ」なんてことを自分に言い聞かせる時間が増えていった。
確かに恋愛というものは、等価交換ではないのだろう。受容することも必要な要素なのかもしれない。しかし、片方だけが自らの領域を際限なく解放し続けるのもまた、違う。
気づいたら、私は私をどんどん手放してしまっていた。目の前の鏡に映っていたのは、恋人のやりたいことやしたいことに従順になるだけの、輪郭も軸も消えかけたアメーバみたいな生き物だった。

うにゃうにゃとしたアメーバを記憶の中から引きずり出した犯人は、本書『黙って喋って』収録の「ばかだねえ」「黒じゃなくて青なんだね」の2篇である。いずれも、自分の意思より相手の男の意思を優先し続けてきた女の話だ。

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もう一丁いこう。愚鈍な記憶その2。
これに関しては「あの頃」とピンポイントでスポットを当てられるものではなく、人生の中のあちこちに散らばっている私の悪癖だ。

長い物に巻かれがち、右にならえをしがちだけれども、胸の内には言葉にならない違和感が燻っている。しかし声を上げることができない。嫌われたくないから、浮きたくないから、ぶつかり合いたくないから……そんな臆病心と防衛本能が、喉元までせり上がりつつあった本音を奥へ奥へと押し戻していく。
我慢の限界を迎えたとき、それは突如爆発する。鬱屈とした感情が溜まっていた分、弾け方もやたらに派手だったりする。そして身体の外側で弾けてもなお、依然言葉はまとまっていない。

そんな自らの悪癖を暗に指摘されたような気がしたのは、「紙ストローって誰のために存在してんの」「問題なかったように思いますと」の2篇を読んで、しばらく経った後だった。それぞれの主人公は、夫に離婚を切り出す女と、職場に蔓延している"当たり前”への迎合から脱そうとする女。シチュエーションはまったく違えど、蓄積された違和感から目を逸らすことができなくなったという点は通じているように思えた。

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がやがやとうるさい居酒屋の半個室で顔を近づけ合って言葉を交わした夜、すっかり氷が溶けて味のしなくなったレモンサワー、さっき会ったばかりなのに気づいたらもう繋がれていた手の生温かさ、あの人がいつもまとっていた香水の匂い、換気扇の下で煙草を咥える後ろ姿、この時間が永遠に続けばいいのにと叶わぬ願いを捧げた2人きりの車中。

そんな断片的な記憶たちも、ページをめくるたびに乱雑に蘇ってしまった。
何度も言うようだが、引きずり出された記憶はどれも美しくはない。言葉を選ばずに言えば、読後感に「楽しかった」「面白かった」なんていう感情も一切ない。

しかし、妙に心地よかった。知らない女たちの知らない話×18のはずなのに、「なんか、知ってる」と思った。ふふ、とひとりでに笑ってしまいそうにもなった。

美しくはない記憶だとしても、それでもそのすべてが私を作り上げていることは確かで、だからこそ嫌いにはなれないのだ。「あのとき何で黙っちゃったんだろうな」「あのとき何で言えなかったんだろうな」とため息をつきたくなると同時に、過去の自分をどうしようもなく抱きしめたくもなる。

◎          ◎

口元から笑みがこぼれたのは、きっと、生身の人間が持つ温度感が感じられたから。
18篇いずれも架空の物語なのかもしれないけれど、そこには確かに「人生」の一片が宿っている。彼女たちが迎える明日に、自然と想いを馳せてしまう。
とはいえ明日も明後日も、来たりくる日々の様相は変わらなくて、愚かなままなのかもしれない。
それでも、人は生きていくしかないのだ。時に肩を落としながら、時に希望を抱きながら。

引きずり出された記憶を元あった場所に戻しながら、私もまた思った。
この先も、まだまだもがき続けるのだろう。「しんどい」と机に突っ伏したくなる夜もあるだろう。それらがまた、新たな「美しくない記憶」として積み重ねられてゆくのだろう。

それでも、生きていきたい。
本書『黙って喋って』のタイトル原案は『しゃんとせいよ』だったらしい。あとがきにそう綴られていた。
「しゃんとせいよ」という言葉を、テレビの中からよく聞こえてくるお馴染みのハスキーボイスで再生してみる。
なんだか、ちょっとだけ背筋が伸びたような気がした。

こんな方におすすめ!

決して美化はしたくない。というかそもそも思い出したくもない。それでも妙に脳裏に残っているあの恋や、あの人や、あの時の景色。そんな過去たちについて「記憶の中で蓋をし続けるのもいいけど、まあたまには光を当ててみてもいいかな。でも少しだけね」と思えるような人におすすめの1冊です。

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」1月31日発売

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」が1月31日に発売されます。「ヒコロジカルステーション」で連載中の小説を加筆し、さらに書き下ろしも。朝日新聞出版。1760円。