年末年始に2つの出来事があり、それらが自分の話し方に対する考え方を変えるきっかけとなった。

これらの出来事以前は、友人たちとのコミュニケーションにおいて素直な自分をさらけ出すことができると信じていた。お互いが正直であればこそ、強固な関係が築けると考えていたのだ。しかし、これらの出来事を経て、友人たちでさえも、まずは「人間」であることを理解する必要があると気づかされた。

人は人間性から逃れることはできず、その認識が共通しているのだ。

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最初の出来事は、年末に30代の友人Aに誘われ、彼女の友人のパーティーに参加した際のことだ。

しかし、パーティーが終わった後、友人Aから怒られることになった。その理由は、私がパーティーの場で率直な意見を述べすぎたことで、他の参加者からは浮いてしまったと感じられたからだ。自分が言ったことを思い返してみると、国家の定義とフェミニズムについてだけだった。ただ、パーティに参加していた人の中に、EUの男性職員がいて、いわゆる「地位のある人」だった。 

彼は私の発言を一笑に付し、国連条約の英語版すら読んでいない大学生がここで発言する資格があるのかと嘲笑した。私はその場にいた人たちよりも若かったので、何も言わずにいた。ところが、親友のAから「怒らせたら大変なことになる」という文句を言われた。

この人たちを怒らせたら、将来役に立つ友達がいなくなり、社会でやっていけなくなる、と言っていた。これが中国の社交辞令というものなのだろう。

このとき私は、今日のパーティーは友達を作るためのものではなく、出世するためのものだと理解した。

大人のパーティーでは、本来の自分をさらけ出すことはできず、ただその場の雰囲気に従うだけでいい。しゃべるにしても、本当に思っていることを言うのではなく、その場にいる人たちが何を聞きたいのかを察することが大切だということがわかった。

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もうひとつの出来事は、年明けに久しぶりに会った友人Bの恋愛の悩みに関するものだ。

彼氏が浮気をしているのではないかと疑念を抱いており、遠距離恋愛で毎日の電話が欠かせない状況だった。しかし、ある晩、男性が電話を忘れたことから友人Bは浮気を疑い出し、大喧嘩となった。

この話を聞いて私は客観的で冷静な態度で、証拠がない限り言い争う必要はないとアドバイスしたが、友人Bは怒り、私に理解されていないと感じたようだ。

翌朝早く、彼女が彼氏と仲直りし、旅行に行くことになったという知らせを受けた。

そのメッセージを見て、私は昨日の自分を思い出し、騙されたような気がした。友人は私のアドバイスなどまったく必要なかったのだろう。ただ彼女の文句を聞き、一緒に男を責めるだけで十分だったのだ。本心を言う必要はない。

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以上のことから、この社会では誠実なコミュニケーションが必要なのか、それともありのままの自分を出すことが必要なのかと考えざるを得ない。

今、社会の風潮としては、相手を傷つけず、誤りを避け、相手の感情を尊重して話すことが一般的になっているかもしれない。しかし、本当の自分を抑えて外界と調和し続けることで、生きている実感を得られるのだろうか。このような状況で、私はどのように生き抜けばいいのだろうかと混乱してしまう。

他人を喜ばせるために本当の自分を犠牲にすることは避けたい。間違いのない世界に屈しないでいたい。いわゆる人間の世界で制約されることも嫌だ。ただし、私には世界と友人が必要だ。

それでわかったのは、真実はもちろん伝えなければならないが、同時に嘘も交えて伝える必要があるということだ。

真実は外部から与えられるものではなく、自分が積極的に求めなければならないものである。また、人々が批判を求めるとき、彼らは批判を期待していると思っているが、実際には褒め言葉を求めていることも理解した。他人が話しかけてきたとき、相手は自分の内容を聞いてくれていると思っているが、実際には相手が求めているのは自分の態度だけであることも知覚した。

友達同士であっても、正直であることは難しい。なぜなら、友達である前に人間なのだ。これからも微妙な人間性を理解しつつ、自分を見つめ直すことが重要であろう。