『黙って喋って』(ヒコロヒー/朝日新聞出版)

※朝日新聞出版社よりご恵贈いただきました。

体内をボコボコ殴られて、思わずウッと声が出る。
もしかしたら蹴られたのかもしれない。確かなのは、みぞおち辺りまで子宮が大きくなっているということだ。最初は気泡のようだった胎動も、今や「事件」が身体の中で起こっているくらいの衝撃に感じる。

その度に、今日も元気に生きている、と私は少し安堵する。
この春、私は母になるのだ。

◎          ◎

「5月生まれなら、保活は妊娠中から始めるといいですよ」
まだ到底秋とは呼べないような日差しが残る10月初旬、市役所に妊娠届を提出しに行った私は、窓口の担当者が良かれと思って発した言葉に自分の耳を疑ってしまった。
ポカンとしていると、
「逆算するとですね、認可に入れたいなら、申し込みが毎年10月頃、その前に保育園見学に行かなきゃ。生まれたばかりの赤ちゃんを連れて暑い中外に出るのはほんとに大変ですよ。春生まれなら妊娠中にちょっとでもスタートしておいた方がいいと思います」
と担当者は丁寧に言い直した。
「はぁ…そういうものなんですね」
内心かなり驚いたけれど、つわりで気持ち悪い胃袋がそれどころではなく、私は大人しく母子手帳を受け取って帰路についた。

どうして「普通の人」は、病院で計算された出産予定日に、「普通の」赤ちゃんが生まれてくると考えられるんだろう?そんな保証、どこにもないのに。
3年かけて、体外受精をして、やっと授かったこの小さな命が当たり前ではないのだと思えば思うほど、私は「普通」に疑問を抱くようになり、それは子宮が広がって痛みを伴うほどの胎動を感じ、お腹の中の赤ん坊の性別が女の子だと分かっても尚変わらない。その疑問から逃れられず、むしろ深みにはまっていく一方だ。

妊娠や出産だけでない。例えば障がいと呼ばれるものもそうだ。
思えば私が「普通」への疑問を抱くようになったのは、高校生の頃にまで遡る。

◎          ◎

私は高校時代に交通事故で頸髄を損傷しているので、左手の握力が14キロくらいしかない。これは小学3年生女児の平均握力と同じくらいらしい。
事故当時はもう少し深刻で、握力どころか腕が上がらなかった。ハンドボール部だったけど競技は諦め、趣味のギターもピアノも弾けなくなったけど、運良く右利きなので「普通に」生きていく分には大きな問題はないだろうと、身体障がいに関わる届出や診察などは受けないことに決めたと退院後に両親から聞かされた。

自分のことなのに「聞かされた」とはおかしな話だなとも思うけれど、当時16歳で首が折れて死にかけていたので、自分がこれからどうなるかなどは全部事後報告で知ったのだった。

言われた通り「普通に」生きていく分には問題はなく、障がいに関わる色々をせず、また幸運にも腕の可動域が広がった私は、利き手と逆の手の握力が小3女児の「普通の」30代になった。
でも、校庭でボールを追いかけ、ライブハウスで楽器を弾いていた「普通の」16歳は、永遠に私の中からいなくなってしまった。
もういい大人なのに今でもタラレバを想像し「普通」とは何かと疑う癖は、この経験に起因していると思う。

だから、ヒコロヒーさんの著書「黙って喋って」を読んで私の心に一番残ったのは、「普通に生きてきて優と出会ったんだもん」という短編だったのだ。

◎          ◎

恋の一瞬が切り取られた短編集の中で、本章は少し変わっている。
状況説明がほとんどなく、茉耶と葉月、2人の食事中の会話が延々と描写され、読者はまるで食卓を囲む「3人目」になったような気持ちでストーリーに入り込むことができる。

冒頭で分かるのは茉耶が会社員であること、葉月が関西弁なこと、そして2人にはそれぞれ障がいを持つ恋人がいるということだけ。
他愛もない会話に、茉耶が世の中の「普通」にもがいている様子が散りばめられている。
障がい者の優と分かり合いたいのに伝わらない。優との関係がいかに「普通であるか」みんなに理解してほしい。みんなと同じように生きていきたいだけなのに、うまくいかない……。
そんな茉耶の気持ちに心当たりがありすぎて、ちょっと読み進めるのがしんどくなるくらいだった。

結局、結論は出ず、2人が食卓を囲みながら話し続ける描写で物語は終わる。正解のない日常がこれからも続いていくだけなのだ。
でも、私は救いがあると思った。だって茉耶には葉月がいる。
2人の関係性は最後まで明かされない。でも茉耶には、行き所のない気持ちを受け止めてくれる人がいる。そんな存在の尊さが、私にはよく分かる。

◎          ◎

もうすぐ春が来る。
春が来たら、私は母になる。

今はお腹の中の赤ん坊も、恋愛に悩んだり夢に破れたり、いつか世の中の「普通」という壁にぶち当たったりするのだろうか。
そんな時には、私も苦しみを一緒に受け止めて、この子と一緒に悩みたい。
そしてこの子のそばに、いつでも寄り添ってくれる存在が私以外にもたくさんできますように、と私はどこにでもいる「普通の」母親のように今、心から願っているのだ。

こんな方におすすめ!

・白黒はっきりつけたくない人
・他人の恋を覗き見てみたい人
・忘れたくない恋の思い出がある人
・身近な人には話せない恋の経験がある人
・当分恋は懲り懲りな人
・あの時の彼女が何を考えてたか知りたい人
・ちょっとした生きづらさを抱えてる人
上記に当てはまる人は、「これって私だ」「俺だ」と、きっと「あの日の自分」を発見できると思います。

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」1月31日発売

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」が1月31日に発売されます。「ヒコロジカルステーション」で連載中の小説を加筆し、さらに書き下ろしも。朝日新聞出版。1760円。