『黙って喋って』(ヒコロヒー/朝日新聞出版)
※朝日新聞出版社よりご恵贈いただきました。
「、」が多い一文目に目を通して、本を読むって、雪道をずっしり踏みしめて歩くように、それくらいのスピードで行われる営みだったと思い出す。
ネットニュースに目を滑らせる日常のなか、雪原に足を踏み入れるそれだけに意識を集中させることって、こんなにも気持ちが良い時間だったかなと頭を捻る。先が見えない真っ白な世界に、ギュッと押し込まれていく。
どこの誰とも知らない人たち、なのに彼らを知っている。一瞬のゆらぎを万華鏡のように映し出す、そういう短編をいくつか読んで思い出したのは、かがみよかがみに投稿したものの公開に至らなかったエッセイのことだった。
◎ ◎
大学一年生の冬、好きな人が、友達の彼氏になった。(『ねえ由莉ちゃん』の)「景太」みたいな勘違いさせ野郎で、私はきっかり一年、まんまと勘違いしていた。水族館に行って、カラオケに行って、クリスマスには映画を見た。今でも新鮮に腹が立つ。
浮かれた日々から一転、まさかの失恋。田舎から出てきた女学生には状況が理解できなかった。心が美しかったので、事実を知った三時間後には、朝から晩まで一年続いたLINEも終わりにした。
私は線を引ける人間ですよ、みたいに振る舞ったが、痛々しく見えただろう。
問題はその後。異性関係において信頼がない人間は、恋人を幸せにしない。彼も例外ではなく、不安をふくらませる彼女を前に、元凶と気づいているのかいないのか態度を改めることはなかった。いつしか、彼女が弱っていると噂に聞くようになる。
恋心は薄まっても傷は癒えていなかった私は、あわよくば二人の関係がこじれたらいいと思っていた。しかし、二人との友人関係を壊したくはないので、直接的なことは言わない。共通の趣味のイベントだけ、と自分に言い訳をして、二人で出かけたこともある。
私はあくまでも女友達。二人の問題は二人の問題で、そこに私は関係ない。
◎ ◎
それから数年、全員が新たな相手を見つけた頃、当時の話を知り合いにすれば、「それは愛じゃなかったんだね、恋だった」と言われた。なるほど、好きな人の幸せを願って身を引くのが愛だったんだ。確かに、恋愛映画の甲斐甲斐しい当て馬ならそうするかもしれない。
私の言動は美しくなかったと、丸く大きな「不良」スタンプを押されたような気になった。
エッセイを取り下げたのも、私自身が、私の行動を糾弾する気持ちがあったからだ。過去のこととはいえ、世に出す勇気がなかった。
客観性を得た途端、恋愛には『正解』があるような気がしてしまって、「色気よりも安らぎを」と当時の自分に小言を言いたくなる。一方で、恋愛に正解があってたまるか、とはねのけようとする自分もいるのだ。傍からみれば不良でも、自分さえ肯定できなくても、恋をしていた私の笑顔は、だってこんなにも眩しい。
◎ ◎
どうしようもない夜を過ごしてしまう私たちを、『黙って喋って』が包み込む。
今世では不良だった関係も愛おしく思えるほど、すべての「彼ら」がこの時、この一瞬を生きていた。目まぐるしい日々のなか、偶然交差した邂逅。奇跡の最中にいることを、羨ましく思えるほど。
愛に包まれ、懺悔を終えたような気持ちであとがきにさしかかると、ひょっこり著者が現れた。あなたが、と握手を求めれば、大股でズンズン歩み寄り、肩をビシバシ叩かれたのだった。
そうだ、いつまでも思い出に浸っている暇はない。寝て起きて食べて働いて、しゃんと背筋を伸ばして生きなければ。また新しい愛に出会うために、世界のどこかにいる誰かと、生きてきてよかったと見つめ合うために。
後ろ髪を引かれながら、今、雪原から走り出す。
こんな方におすすめ!
・人に言えない恋をした人
・恋は「名前を付けて保存」の人
ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」1月31日発売
ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」が1月31日に発売されます。「ヒコロジカルステーション」で連載中の小説を加筆し、さらに書き下ろしも。朝日新聞出版。1760円。
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photo:Sakawaki Takuya
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photo:Sakawaki Takuya
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