「俺、この先10年不倫しないかと聞かれると、うんって言えないわ」

深夜1時、最寄駅で唯一朝まで開いているいつもの居酒屋で右隣に座る4つ上の先輩が、「まあ、別に今不倫したいってわけじゃないけど」と付け加えて、コンクの分量が多すぎる梅サワーを口に運んだ。

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奥さんからはもちろん、世間的にも間違いなく大批判を喰らうはずの発言なのに、不思議と私は怒りが湧いてこなかった。そりゃそうだよな、という共感に似た諦めと、ここまで潔く言い切れることに対する尊敬が、皮肉にも彼に対する親近感と憧れをより強固なものにしていく。1軒目で10杯以上ハイボールを飲んだはずなのに顔色もテンションも変わらない彼の話に、「そういえば前もこんな話したよな」と思いながら、私はバカみたいに真剣な顔で相槌を打っていた。その向かいの席には、微妙な表情を浮かべた3つ上の未婚の先輩が、白子ポン酢に手を伸ばしていた。

4つ上の先輩は昨年、私のひとつ下の後輩と結婚した。両者とは元々仲が良く、よく飲みに行く間柄だったが、まさか2人が付き合っていたとは知らず大変驚いた。それは同じ職場の人たちも同様で、結婚・妊娠と同時にその事実を知った人がほとんどだった。
後輩がかねてずっと、彼に好意を寄せているのは知っていた。周りから見てもわかりやすくアプローチを重ねていたし、実際に後輩の恋愛相談に乗ったこともある。だから当初は後輩の片思いだとばかり思っていたが、実際2人は水面下で関係を育んでいた。

けれど正直、彼が後輩のことを本当に好きなのか、結婚当初からよくわからなかった。

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彼と3つ上の先輩と私の3人は家が近く、「今から飲める?」という雑な誘いでよく集まり深夜までお酒を酌み交わした。前回飲みに行ったのは私たちが半袖を着ていた8月、結婚したばかりの彼はそのときにも「不倫はすると思う」という趣旨の話を切り出し、3つ上の先輩が過剰に批判したのだ。「いや、不倫はダメでしょう」「ダメって、なんで?」「だって子どもも奥さんもいるのに」

不倫が認められないことは間違っていないと思う。結婚は法のもとに婚姻関係を結ぶことで、それを逸脱する行為は裁判にすら発展する。慰謝料を請求されて、親戚から白い目で見られる。離婚することだってある。大抵の場合、幸せな未来は待っていない。結婚当初からこんな発言をするなど、彼は本当に後輩のことが好きなのか?と、私は疑わずにはいられなかった。正直すぐ、離婚すると思った。

それでも彼はよく、家族の話をする。
「今家を探しているんだよね。親と住める二世帯住宅がいいなって」「そろそろ冷蔵庫を買おうと思う。いまだに俺がひとり暮らし用に買ったものを使っているし」「今度家族旅行しようと思っていて。でも子どもはまだ小さくて大浴場に入れないから、内風呂がついている宿を探しているんだ」

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彼は決して笑顔は見せないが、語られるものはどれも家族の充実した日々だった。ただ淡々と、自分のやるべきことを遂行する彼のスタンスは、自分が背負うものの重さと覚悟を認識する様子そのものだ。不倫の可能性を「ある」と断言する彼は同時に、離婚の可能性についてもこう断言した。

「俺からは絶対に離婚しない。もし離婚するなら、あいつ(奥さん)から離婚したいって言われたとき」

不倫に対する感覚はきっと、唯一の既婚者である彼にしか分からないものなのだと思う。交際から結婚に関係が変わったところで、修行僧のように常に100%愛や欲望を奥さんに捧げられるわけではないし、結婚した後でも魅力的な人に出会う可能性は大いにある。

不倫したいわけではない、けれどそれは起こりうることだと思う、と、これから自分の身に降りかかる事実を客観視して受け入れる彼の発言を前に、未婚者の綺麗事を押し付けることはできなかった。

そう考えてひどく冷静になった私は、アルコールが回ってヒートアップする2人の議論を、向かいの席で静かに見守る。不倫することと家族に対すること、同じ土俵で議論してはいけない気がしてきた。