結婚。
年を越した瞬間から報じられる有名人の報告の数々。
有名人の定義が曖昧となり、Youtuberなどの情報もテレビで報じられるようになり、数を数えることも諦めるほどに毎日情報があふれかえっている、らしい。
私は数年前にテレビを捨て、現在はネット上で経済や政治の情報を拾う生活をしている。
それでも全く目に入らないわけではなく、タイトルを読んでブラウザを閉じることもある。
その情報に心が揺さぶられることなどなく、むしろ久しぶりに実家でテレビを見た際に飛び込む、報道の多さに嫌悪感を感じたほどだった。
価値がないと思わせる報道には意味はない。
少なくとも報道する価値を問われる程の情報をメディアは伝え続ける。
この話題を通じて私たちに何を伝えたいのだろうか。
彼らの意図について少しだけ考察してみよう。
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先日職場の同期の結婚式に参列した。
高級ホテルで、各職場の上司をはじめ、同僚、友人、家族併せて100人を超える人が参列し、2人の結婚を祝った。
参列したものも、耳で聞いたものも含め、最近の結婚式はこじんまりと家族だけ、もしくは親しい友人だけというスタイルが多かったため大規模な結婚式は久しぶりだった。
多くの人に囲まれ幸せそうな2人を見て私も幸せをお裾分けしてもらった。
同時にこれだけの人が彼らを祝福しに時間と労力をかけて集まるのだと驚かされた。
元々同期である新婦のことは大好きで大切な友人ではあるが、結婚式を通して彼女がいかに周囲の人々から大切にされ、同時に周囲の人々を大切にする素晴らしい人間かを感じた。
人の時間もお金も有限であり、幸せが多様化したこの世の中において結婚式も参列も選択の自由が利く中で、結婚式自体が彼らの社会的信頼の高さを参列者に意識させ、同時に参列者に信頼の誓いを立てる儀式のようなものなのだと、2人の幸せな空気と白ワインで酩酊した脳みそを回転させ考えた。
有名人は究極のブランディング主義であり、世間からの印象と信頼が大切な職業である。
誰もが自由に発信することができ、意図しない形で自分の印象が変化する情報激動時代。
株価のように毎日変動する印象や信頼を維持し、仕事を勝ち取るのは過酷極まりない。
そんな時代での結婚報道は、彼らにとっては重要な信頼獲得源だろう。
ちょうど私が同期への信頼をさらに感じたように。
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一方で、彼らの得た信頼は想像より軽く、脆いものだ。
砂の城の王とはこのことで、実際に関わる人間への信頼というのは簡単には崩れないが、有名人の彼らが持つ信頼は綿菓子のように軽い。
それは、知っている、と関わっているとの差があまりにも乖離しているからだろう。
世間からの一時の信頼に胡座をかいているとその先に待つのは崩壊だろう。
そしてそれを世に知らしめるのもまた、報道なのだ。
報道とはそんな真実を私たちに見せること自体が価値であり、報道を通じて私たちは人を選択し世の中を選択し続けている。と、同時に、自分の行動を客観的に振り返る機会を与えられるのだ。
だからこそ、報道というもの自体には常に清く誠実であり続けてほしい。
多くの情報を提供している中で、間違えることももちろんあるだろう。
間違ったら訂正し、謝罪する。
それだけのことかもしれないが、人1人が何かを発信した時とは比べ物にならないほどに、メディアが世間に与える影響というのは大きいのだ。人の人生を救いもすれば壊しもする。
その大きさを、報道する側には今一度考えてみてほしい。
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価値や信頼は一日にしてならず。
謙虚に地道に、一歩一歩進むことで構築されるものだ。
どこにでもいる私のような人間も、メディアに登場する有名な方々も、それを報道するメディアも根底は同じだ。
人として誠実にあり続ければ、綿菓子のような信頼もいつか形になる。
明日も生きるであろうこの世を少しでもより良くするために、私たちは手を取り合い誠実に生きていかなければならない。