冬、友達が卒業論文を提出できなかった。
優秀な子だった。ものすごく仲が良かった訳ではないが、大学の課題が出されると一言二言話す程度の関係だった。
私とは違うゼミに所属していたが、どうやらそのゼミと相性が悪かったらしい。秋頃から、その子はだんだん大学へ来なくなっていた。

私は卒業論文の提出をなんとか終わらせ、まだ肌寒い中、同期の子とお茶をした。同期の彼女たちとは普段から仲が良く、私にとって刺激を受ける存在だった。
話は自然と卒業論文を提出できなかった「あの子」の話題へと移っていった。
会話の中で、彼女たちが口にした言葉が私の胸に引っかかった。

◎          ◎

「あの子は、自分の『弱さ』を乗り越えないとダメなんだと思う。『弱い』自分を乗り越えることが、卒業論文なんだと思う」

彼女たちはいわゆる「強い」方の人間だった。それは、この短い時間の会話の節々からも感じられた。
「昨日は飲み会だったけど、今日も朝早く起きて大学に来て勉強した」

「春休みは、新しい繋がりを求めてワークショップに参加する」

「たくさんのことを経験したいから、たくさんのバイトをしてスキルアップしている」

「将来は、こんなキャリアにしたいから先輩から話を聞いている」
なんて活発で、明るくて、「強い」んだろう。

確かに彼女たちのいう通り、卒業論文を提出できなかった「あの子」は「弱さ」を乗り越えられなかったから、卒業できないのかもしれない。
正論なのに、なぜ彼女たちの言葉にモヤモヤするのだろう。
なぜか、同期の彼女たちの言葉に完全に同意できなかった。

◎          ◎

おそらく私も「あの子」と同じ、「弱い」方の人間だからだ。
「強い」彼女たちも「辛い思いをしたことが何回もある」と話す。それをバネにして、「強く」なっているらしい。
「弱い」私にとっては、その「強く」なるスピードに追いつけない。彼女たちは、「トライ&エラー」を繰り返すスピードが速いのだ。
「弱い」私は「トライ」をしても、よく「エラー」の部分でしばらく立ち止まってしまう。だから彼女たちほど、様々なことにチャレンジもできないし、それこそ「強く」はないのかもしれない。
卒業論文を提出できなかった「あの子」も今、「エラー」の部分で長く立ち止まっているのだと思う。

世間は「トライ&エラー」を繰り返し、「強く」なった人間が素晴らしいと思っている。
「エラー」の状況はとても暗く苦しい。しかし、そこでしばらく立ち止まる「弱い」私たちにしか得られないものがある。

◎          ◎

それは、同じ「弱い」人間に思いを馳せる力だと思う。
別に時間がかかっても、カッコ悪くても、大学を卒業できなくても良い。「あの子」が自分で納得する道を進めたらそれで良い。
暗くて孤独で辛い「エラー」の部分にしばらく浸っている「弱い」私たちだからこそ、同じ状況の人を受け入れることができるのだ。
「弱い」私たちにはこの長く辛い状況下で感じたことを、同じ状況の人に思いを馳せることができるのだ。
「強い」彼女たちが速いスピードで成長している間に、「弱い」私たちはゆっくりと同じ「弱い」他者に思いを馳せながら生きていければそれでいいのだと思う。

春、「あの子」を除く同じ学科の学生は、大学院に進んだり就職をしたりしようとしている。目に見えている時間には差があっても、「弱い」私と「あの子」の精神的な時間は変わらない。私は、卒業論文を提出できない「あの子」がダメな人間だとは思わない。
「トライ&エラー」の「エラー」の部分にしばらく浸り、それでもゆっくりと一緒に進んでいけばいいのだ。