歳をとるのが怖い、と思ったことは誰しもあるだろう。
私はまだまだ 20代前半でありながら、自分もいつかおばあさんになって死ぬ日が来るのだと思うと何か大きな渦に飲み込まれていくような感覚を覚える。死というものを知ったばかりの幼い頃は特に、そのうちお母さんが、友達が、自分が、消えていなくなってしまうという事実はあまりに恐ろしく信じ難いものであった。
それと同じく、年々老けて若々しさを失っていくのに抵抗するというアンチエイジングの意味でも、歳を重ねるというのは人間が生きる上で抱える重大な問題の1つである。
歳をとれば不自由になる。散歩に出かけるのさえ億劫になり、電車の乗り方は忘れるし、目がかすんで好きな本は読めなくなるし、バラエティー番組なんて早口で何を言っているのか聞き取れないのだ。
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しかし、これらは単に目に見える変化である。歳をとって身体は衰える一方だとしても、心は良い方向へと磨かれ続けるのではないか。私はそう思うし、何よりそうであってほしいと自分の人生に対して願っている。
その願いが確信に変わったのは、高校1年生のときにある1冊の本に出会ってからだった。本には、「歳をとるとそれまでのどんな年齢の自分にもなれる」といったような言葉が記されていた。本の題名は『モリー先生との火曜日』。大学の教授であったモリー先生が、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病と上手く付き合いながら最期まで心穏やかに生きていく様子を、教え子の目線で綴った実話だ。
私はモリー先生の言葉と出会って、歳をとるとはなんて素晴らしいことかと思えるようになった。
考えてみてほしい。
おじいさん、おばあさんになったら、公園で小さな子どもを見かけて、自分も同じようにはしゃいだ子どもになっておしゃべりを楽しむ。恋に悩む若者を見て、自分も恋する10代のようにうっとりできる。大人になるべきときには、働く世代の気持ちになって政治を見つめたり、思慮深く教育を行ったりする。
そして春が来たら年齢分の春を、冬が来たら年齢分の冬を心に抱いて過ごす。これのどこが不自由と言えようか。
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歳をとれば自由になる。今まで経験したすべての年齢の自分に、いつでも、どこでもなりきることができるからだ。
それは自分の老いた身体とは全く関係なく、心だけを解き放つことが可能になるということで、自由自在に今までの自分を楽しみ尽くすということなのだ。
「若くて羨ましい」は、その人の表面しか見ていない証拠かもしれない。同時に、自分のことを表面上でしか分かってあげようとしていない証拠でもある。
今の私は、これまで経験した21種類の年齢になることができるが、30歳、50歳、80歳と年を重ねれば、もっと幅広く、何十種類もの年齢になることができるのだ。
これができない、あれを失った、ではなく、色とりどりな心の変化と自分の世界の広がりをポジティブに捉えることで、私は歳をとるのを楽しみに待つことができる。