やっぱり、どうしても忘れられない事件がある。
自分が同じことをするなんてこと、あり得ないと信じているのに、なぜか他人事と思えなくて。

2010年の大阪2児餓死事件。当時大学生だった私は、きっとこの衝撃的な事件の報道を流し見ていたんだろう。

この事件の存在を知ったのは、たまたまNetflixで見つけた『子宮に沈める』という映画を知ったつい最近のことだった。

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名前を聞いただけで胸がギュッと苦しくなるこの事件。その内容はさらに凄惨なものだった。
風俗店に勤務する23歳のシングルマザーが、マンションに2人の子どもを置き去りにして50日もの間放置。3歳の女の子と1歳9ヶ月の男の子の幼い命が亡くなった。そして先述の『子宮に沈める』は、この事件をベースの1つとして描かれた社会派映画だ。

映画をきっかけに事件を知り、後日出版されたルポ本も読んだ。

母親がどんな環境で育ち、どんな経緯でシングルマザーになったのか。そしてどんな理由で悲劇が起きてしまったのか、取材を通してその生い立ちや足取りを辿っていく。

小説ではないし、当然著者は母親自身ではないので、その本心は直接的に描かれることはない。でもページをめくるごとに、読んでいる私の身体は何かにむしばまれてどんどん重たくなっていき、鼓動が激しくなるのを感じた。

歩んだ人生も、周囲の環境も、おそらく考え方も、私とは全然違う。それでも。
「母親」であるという、ただそれだけの共通点で、この事件のことがどうしても頭から離れなくなってしまった。

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息子は2歳になったばかり。半年間の不妊治療の末、3回目の人工授精で授かった。
生まれる前も、生まれてからも、息子に自分は生かされていると思っていたし、今もそうだ。くりんとした黒い瞳、血色のいいピンク色の小さな唇、いつ何時も愛おしい仕草、すでに少年っぽさを感じさせるちょっとかすれた声。

愛らしさを凝縮したようなこの小さな存在が、笑顔で元気に生きていけるように。食べさせ、着させ、風呂に入れ、オムツを替え、毎日穏やかに眠りについて、夢の中でも笑っていてくれるように。

私のすべては、息子のためにあると本気で思っている。そして、母である私はそう生きるべきなのだと。

事件を起こしてしまった彼女は、冷酷な人間だったのだろうか。人の心を持たず、自分の子どもを平気で殺すことができるような人間だったのだろうか。考えれば考えるほど、そうではないような気がした。

本当は、私と同じように子どもを想い、私以上に責任感の強い母親だったのではないかと、そう思い至ったのだ。そして彼女が限界を迎えるまで外に助けを求められなかったのは、自分自身に過酷な母親像を突きつけていたからなのではないかと。

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母親や母性という言葉には、優しさや愛情を連想させる力がある。でもその力は時に、母親自身に銃口を向ける。

育児の現場は壮絶だ。散乱するおもちゃやゴミ、ぶちまけられる食事や飲み物、泣き喚く声、時間や金銭、現実との戦い。あまりに疲れてしまっているときは通常通りの思考ができずに、視界が歪んで、にじむ。

この子の生のために自分は生きている、そう思っていたのに。

しんどい。もう放ったらかしにしてどこかに逃げたい、現実から離れたい。そして、そんなことを考えてしまう自分を、殺してしまいたい。

もしかしたら、彼女“も”そうだったのではないだろうか。

優しさと愛情のすぐ隣にあるのは、危うさと孤独だ。最愛であったはずの我が子を手放した彼女と、亡くなってしまった子どもたち、そして息子を想いながら、私は今日も育児の幸福と責任に向き合っている。