「同じ人間なのに」
入管関連のニュースを見る度に、この言葉が頭の中にこだまする。
名古屋出入国在留管理局で2021年3月スリランカ人女性のウィシュマ・サンダマリさんが亡くなったニュースは、この国の入管体制の問題を浮き彫りにしている。
ウィシュマさんは極度の体調不良を訴えていたにもかかわらず、適切な医療を施されないまま亡くなってしまった。
実はこうしたことはウィシュマさんだけに起こっているのではない。カメルーン人男性のサミュエルは「I’m dying(死にそうだ)」と訴えていたのに、無視されて亡くなっている。ベトナム人男性は、くも膜下出血を発症しており、頭痛を訴えていたにも関わらず、休養室での容体観察と居室での静養を繰り返した末に亡くなっている。
身近にいる外国人
問題はもちろん適切な医療を受けられないことだけではない。あるデータによると、日本の難民認定率は2%。カナダは59%だ。
ほとんどの難民が難民と認定されずに入管に閉じ込められている。他にも仮放免中に健康保険証がもらえない、就労が認められないなど、文字通り問題が山積しているのだ。
さて、ここで、自分の生活を振り返ってみてほしい。あなたが食べている弁当や野菜を作っているのは誰だろう?外国人ということも多いはずだ。あなたが着ている服が日本製だとしても、縫っているのはおそらく外国人の場合も少なくない。コンビニに行けば、応対してくれる店員さんに多くの外国人がいる。私たちの生活は、もはや外国人なしでは成り立たない。そんなこと、ちょっと生活を見渡してみればすぐに気づくはずだ。それなのに、私たちは、外国人への対応にまつわる様々な問題を見て見ぬふりしている。
避けられない不幸に対して
きれいごとでは解決できないのは、わかっている。自分自身だって、難民がとんでもない数で押し寄せてきた時、その人たちを全員受け入れるのかと言われたら、複雑な気持ちになってしまう。それは感情の問題としてある。でも、日本の難民認定率はあまりに低いのではないだろうか?
先進国というならば、それ相応の責任を果たすべきなのではないだろうか?
私は、双極性障害という病気を抱えている。有意に遺伝の影響がある精神疾患だ。この病気になったのは私のせいではないと思っている。だから私は、理不尽な不幸に対して、どこまでも同情的になってしまう。
難民の方々が日本を目指した理由は人それぞれだと思う。でも、日本に来るしか選択肢がなかった人もいるのだ。たとえば日本行きのビザしか下りなかったなども一つの理由だ。そういう人たちに対して「ほかの国を目指せばよかった」というのは、あまりに非情だ。
選択肢がなかった不幸に対して、何も救済しないというのは、先進国のあり方として正しいのだろうか?
全ての人に救済を
ここでもう一度、考えたい。彼ら彼女らは「同じ人間」なのだ。人種や宗教は違うかもしれない。でも同じ人間が目の前で「死にそうだ」と言っているのを、放っておくなんていうことは、許されるべきではない。
たまたま紛争地に生まれてしまう、たまたま貧しくて災害復興もままならない国に生まれてしまう。たまたま、その国で迫害を受ける宗教を信仰している。全部「たまたま」だ。その人のせいではない。その不幸を救わずして、何を救うのか。
私はたまたまこの病気になってしまった。今でも就労はままならないが、障害年金をもらって、医療費の助成も受けている。日本でこの病気になったのは、不幸中の幸いだと本当に思っている。政治が腐敗しているとはいえ、障害者の権利は随分と向上してきたのを感じる。その気概を、同じ人間である外国人の方にも向けてほしい。今より少しでもいいから。
そして、そのために私自身ができることを考えていきたいと思っている。今の目標は難民支援のボランティアに参加することだ。あいにく今は病状が思わしくなく、参加できない。でもいつか参加できるように、鋭意病状の改善のため励む日々である。