私の朝は、テレビから流れる堅苦しいニュースを聞くことから始まる。

私は幼少期から祖父母と暮らしていたこともあり、毎朝7時前からNHKのニュース報道が流れている。他チャンネルで放送されている、じゃんけんや人気アニメなど、最も縁遠いものであった。

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朝ご飯を食べながら、ぼーっとニュースを見るが、朝から重たい話ばかり。
明るい話といえば、誰かが賞をとったり、5分ほどのスポーツコーナーで今、注目のスポーツ選手やらなんやらの特集をしているぐらい。だが、その報道も一瞬にして終わってしまう。

他は、殺人、強姦、芸能人の逮捕、戦争……。

ふと思うのだが、何のための報道なのだろうか。
殺人事件が起きて、犯人が逃亡している。なら、新たな事件が起きる可能性があるから、報道で注意喚起をする。これなら理解できる。
どうして終わった事柄について、ずっとおなじことをどの報道番組でも取り上げるのだろうか。そして、その事件の重要さ、報道するべきとなる基準はどこなのだろうか。

交通事故なんて、数えきれないほど日々発生しているにもかかわらず、自動車を運転している人が老人で、被害者が幼い少女と母親であるなら報道されるのか?

自動車を運転しているのが中年で、被害者が老人なら、ありきたりな出来事だから報道しなくてもいいのか。

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憤りを感じているわけではないが、事実私の祖父は不慮の事故でこの世を去った。不幸中の幸い、多数の傷を除いて、私の大好きだった祖父の顔のままであったが、高校生だった、その当時の私はしばらく現実を受け入れることができなかった。突然すぎる別れ。「今日は寒いから、セーター持ってけよ」という言葉に適当に返事をしたのが最後の会話だった。何気ない、でも幸せだった日常が人為的に終わらされた瞬間だった。

交番の前に貼られている、交通事故発生件数、死亡者数に、自分の祖父が含まれているのだと思ったとき、何とも言えない気持ちになった。

報道をしてほしかったわけではない、ただニュースや報道という存在自体に疑問が残っただけだ。その解決策も、問題提起でさえ、はっきりとしたものは出せないし、そもそもそんなこと言い出したら、きりがないのだが、テレビに映る出来事に納得いかないことが多すぎる。

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特に私は、毎度記者の仕事に疑問が残る。 

芸能人や被害者の家族の家にまで赴き、事実を明るみに出そうと奔走しているのだろうが、その行為で命を絶った人が今までに何人いるのだろうか。
事実の暴露は、真偽に関わらず、人を追い込むことと同じだ。

記者会見においても、質問で見識や傾聴力の低さが露呈されている。それが偽りであった場合、集団いじめと何が違うのだ。

いじめの悪質さや卑劣さを報道、注意喚起している者が、堂々とその姿を全国民にさらしているのだ。そして、都合の悪い事柄にはあまり触れず、ニュースの時間は過ぎ去っていく。

私の頭の中では疑問や苛立ち、たくさんの感情を抱えた小人たちが憤りを抱きながら、ちょこまかと走り回り、議論を展開している。

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という風に、誰にも話さないし、口に出して感想も述べないが、自分の心や頭の中では批評だらけ。

ニュースを通じて、得ることのできる情報や知識も数多くあるが、その情報の真偽、受け取る側の感情が無視されているように感じてしまうのはきっと私だけではないはずだ。

視聴者側にも数えきれない数の情報が日々飛び込んでくるが、それを自分たちが取捨選択しなければならない。

そうでないと、私たちはただ情報に踊らされるだけの操り人形でしかない。
心を持ち得る操り人形など、息が詰まるだけだから。