古い記憶、脳裏にこびりついて離れない光景がある。
銀座だか丸ノ内だかそんな感じの、質の良さそうなカバンがウィンドウに並ぶ、レンガ調の街をゆく女性。平日の真っ昼間に、その人は優雅に歩いていた。「その人」が本当に存在していたかも思い出せない。私が想像で作り上げた、「夫の稼ぎでショッピングを楽しむ女性」像だったかもしれない。
私はずっと、ああなってはいけない、と思って生きている。「奥様のサポートがあるから旦那がバリバリ働ける」とか、「家庭と仕事、得意な方を分担しているだけ」とか、「そもそもその女性が『夫の稼ぎでショッピング』をしていたのかは分からない」とか、思いつく限り全ての意見を、一度ミュートさせてほしい。
反論したいけれど言葉ではできないくらい、それくらい直感的に、心の底から、ああなってはいけない、という感情がアレルギー反応のように沸き起こる。
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こう思うのは、結婚してパートナーに経済力を委ねてしまうと、その後の人生における選択肢が狭まると感じるからだ。
私は、選択肢がないことにものすごくストレスを感じる。もし将来結婚して、離婚したくなったときに、私とパートナーもしくは家族以外の理由で選択肢が狭められることがあってたまるかと思っている。
自分の人生を人に委ねる、その人との相互関係のなかで生きていくことを恐れているのだろう。特に、経済的な事情に関してはその傾向が強い。
この世界に私の命綱である人がいたら、私は200%その人の機嫌を取って生きていく。それこそ家族という距離の近さであれば、自分の本音なんて無くなるくらいに。
パートナーとの間で、上下関係ができることを恐れている。そばで生きていたいと思う気持ち以外で、如何様にも変化する生き物に執着したくない。
いつの日か私が家族を持ったとしたら、向こう10年とか今は全く見通しがつかないスパンの出来事を予測して、今私が家族の運営に全力を注ぐことが将来の幸せにつながるのだと、心から納得してキャリアを降りることがあるのだろうか。
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もう1つは、仕事に対するものすごく大きな執着心である。幼少期、班長やら学級委員やら部長やら、リーダーを任されることが多かった。高校卒業までその傾向は続き、「1人で生きられそうだよね」なんて冗談を言われることもあった。
そのはずなのに、社会に出てみたら、1人でなんてとても生きられなかった。話と違うではないか。安定した給与やスキル、ほどほどの人間関係を手に入れたはずなのに、仕事と自己実現が結びついている人への憧れが強すぎて、酷く落ち込む日も多い。
仕事はやりがいがあるものだ、と美化されたコンテンツを摂取してきた夢見がち少女だったからか、この歳になっても諦めきれていない。金曜のランチ時になるとSNSでトレンド入りする「あと半日」を眺めながら、どうして仕事というものはこんなにも忌み嫌われているのだろう、それなのに働かなきゃいけないんだろう、とため息をつく。
「やりがいのある仕事」への執着を自覚してから、Xで一度タップしてしまったら度々現れるようになった、婚活垢の投稿にもものすごく共感するようになった。求めているものは違えど、なんだかうまく行かなくて、他の人はなんの知識も仕入れずにそつなくこなせることがこなせなくて、みんながゼロからのスタートならこっちはマイナス地点であがいているような戦いを強いられている。それなのに、どうしても諦めきれない。モチベーションが底をつこうが重い腰を上げてアポに行く。
婚活はいい人を探さなくなった途端に素敵な人が現れるというが、私にはいつか素敵な仕事が現れるのだろうか。白雪姫みたいな夢を見ながら、今日も仕事が始まる。
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結婚しても経済力を手放さず、その仕事が自己実現にもつながったらいい。これらが私の理想であるが、男女の平均年収データを見たり、勤めている企業の先輩女性がどんな働き方をしているのかを見たりしていると、あくまで理想であり幻かもしれないと諦めたくなる気持ちもある。
しかし、まだまだ隠居生活には程遠い。この泳ぎづらい労働市場で、一歩ずつ、這いつくばってでも理想を現実にしてやると、心の灯火を守り続けている。