大学生活最後の冬、就職とは何か、働くとは何かを問われる悲しい事件が起こった。

私の2つ上の女性が大手広告会社の激務が原因で自死したのだ。

同じ女性として、同世代の人間としてこの痛ましい事件は今でも胸に迫るものがある。

私は高校生頃からキャリアウーマンになりたい、長らく専業主婦だった母とは違う道を進みたい強く思っていた。

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大学3年生になってからはOB・OG訪問や短期ワークショップに参加して、周囲に遅れを取らないように精力的に動いたが、強く志望していた企業よりお祈りメールが届き、方向転換をして教員として働く道を歩むことになった。

右も左もわからずにがむしゃらに働いた1学期が終わり、しばしの休憩である夏休みが終わった頃、この過労死事件が一斉に報道された。

夏休み中にやはり一般企業で働きたいと決心した私にとって凄まじい衝撃だった。

エリート中のエリートと呼ばれる大学を卒業して、日本最大手とも名高い企業に就職した憧れの女性が1年前に24年という短すぎる人生に幕を下ろしたというのだ。

連日のニュースでいかに彼女が常軌を逸した労働環境に置かれていたのが明らかになった。

日本人の美徳とも称される生真面目な性格、長時間労働への忍耐を根本から問われ、就活生なら誰でも一度は検索したような名だたる大手企業らの悲惨な労働環境の実態も大きく報道された。

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この事件で私は立ち止まった。そして問うた。

キャリアウーマンとはなんだろうかと。

どの報道でも企業風土や労働環境が議論されていたが、女性としてキャリアを追う意義や葛藤にフォーカスされることはなかった。

しかし1999年の男女共同参画社会基本法施行後に就職した世代として、女性が働くことを男性が働くことと同じ文脈で語ることにどこか違和感を抱いていた。

どうしてこんなに管理職に男性ばかりが集中しているのか。どうして育休をとった後の先生が肩身狭く働いているのか。

私たちは、建前上の男女平等によって刃のように傷つけられているのではないか。

私は何に憧れていたのだろうか。

キャリアウーマンという幻想に踊らされているのではないか。

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事件で亡くなった彼女が好きだったアーティストが私も大好きなグループであることを最近知った。

彼らの曲を聴いて青春時代を過ごした彼女とは、どこかのライブ会場で会っていたかもしれない。

SNS上で同じ記事を読んでつぶやいて一緒に推し活をしていたかもしれない。

いったい彼女は何回彼らの力強いメッセージが詰まった応援ソングを聞いたのだろう。

そしてその声が届かないほど追い詰められたであろう彼女を思うと喉の奥が痛くなる。

大学院を卒業するこの春、私はまた社会に戻る。

ちゃんと見渡したい。誰か思い詰めるほど追い込まれている人はいないか。

企業の中の人間であっても、常に第三者として問える外の人間でもありたい。

声が届かないほど追い込まれる前に気づくことができ、声を聴ける人間はデスクの隣に座っている人だと思うから。