ウクライナやガザの戦争をニュースで知って、違和感を覚えた。

日本では、幼き頃から「戦争はだめだよ」という価値観をずっと教えられてきて、なにか問題が起こった時に「じゃあ、お互いに人を殺しあって解決しよう!」という問題解決の方法を提示されることが想像できないからだ。そもそも、直接自分に悪さをしてきたわけではない生身の人間を、自分の手で殺すことができるようになっていく背景にはなにがあるのか?

最近『戦争は女の顔をしていない』という本を読んだ。この本は、第二次世界大戦中に狙撃兵などとして実際に戦った女性たちの声を綴ったオーラルヒストリー作品である。
私の知っている戦争物語は、日本人のおじいさん、おばあさんによって「戦争は恐ろしいもの。絶対にしちゃだめだ」と涙ながらに若い世代に伝えられているものだが、この本で知った軍人として人を殺してきた女性の多くは「前線に行きたくて仕方なかった」「前線で戦ったことを誇りに思っている」と語っている。

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本を読み進めて行く中で、この感覚が小学生時代の体育の経験と重なった。

男女合同だった体育の時間、運動神経の良い男の子はとてもかっこよく見え、皆から「すごい!」と憧れられる存在だった。できる人にはさらに上の課題が出され、とても楽しそうだった。

同時に、私もそうありたいという気持ちや、女の子だからここまでできればいいよと男の子よりも低い基準を提示されることに「女の子だからって馬鹿にしないで」「私だってここまでできる」という気持ちがあったのだ。

「一人前だと認められたい」という気持ち。遠い場所で起こっている特別なことのように思える戦争は、実は特別なことではなく、日常の延長にあるのではないだろうか。

軍人として戦う男性がかっこいい憧れの存在だとしたら、そんな風になりたい、自分も認められたいという欲求から行動を起こす人が現れても不思議ではない。

ただ、またしても疑問に思うのは、女性が女性の特徴を活かした方法でそれを実現しようとするのではなく、男性に寄せるというかたちで戦っていた点だ。いくら能力があるとはいえ、生物学的に異なる男性と女性のどちらともが男性化することを求められている点は、現代社会のジェンダー問題とも通じる部分がある。

”戦争は女の顔をしていない”というように、戦争は女の顔をしていないどころか、人間の顔をしていないのかもしれない。「自分は被害者だ」そう思った時から人間の心を失くし、獣になっていく。戦争が終わった後、戦った男性は英雄になれるけれど、女性はきっとそうじゃない。

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白黒はっきりつけたい世の中において、ある意味、戦争は勝ち負けの分かりやすい、論理のすっきりとした手段なのかもしれない。

だが、こんな時代だからこそ、ゆっくり時間をかけて知っていくこと、論理のすっきりしない手段を選ぶことが、人間らしくいるために大切なことのように思える。考えなければいけないのは、いつも戦争の責任をとっているのは一般の人だということだ。

近年、SNSで認められたい欲求が強まったことで、短くてキャッチーな正しそうな言葉が出回るようになった。「それはいいね!」「それは悪だ!」安易にそう判断する感覚は、本当の意味での戦争を知らぬまま武器を手に取った海外の女性たちを思わせる。

気づいていないだけで、世の中は十分に”戦争”が起こる可能性を秘めているのだ。

ニュースで語られる公にしても良い情報だけではない、一人一人の小さな物語が戦争にあるように、あらゆる出来事には、ニュースになるような大きな物語と、公に語られることのない小さな物語がある。

自分の見たいものだけを見るのはやめて、時間をかけて、そうじゃないものも見れるような人間になりたい。