当日は白シャツでという連絡に、彼女だけがワイシャツで来た。ポリエステル混ではなく、綿百パーセントの上等そうなシャツで。しかし、他の皆がTシャツでいるなか、彼女は気まずそうに首をすくめた。

◎          ◎

「よかったら、これ」

私は、予備に持っていたTシャツを貸した。それが彼女との出会いである。大学1年、文化祭のクラスごとの模擬店で、私たちは揚げアイスを作る予定だった。彼女は一事が万事そうで、彼女に友人がいないのも、こういうことと無関係ではなさそうだった。

1週間後、彼女はTシャツを返してくれた。白洋舎のクリーニング袋に包まれていた。Tシャツの値段よりクリーニング代の方が高いくらいだ。彼女はまだそのうえ私にお茶をごちそうしたいという。私は恐縮しつつも、興味本位な気持ちを抑えられなかった。

行った先はデパートの店内にあるウェッジウッドティールームだった。こういうお茶一杯が1,000円近くする店に入るのは初めてだった。彼女は迷わず私を奥のソファ席に座らせ、自分は手前の椅子に座った。

私はこの時の彼女の挙動を今もよく覚えている。これには全く感心し、見習おうと思った(以後、男性とデートなどしても、自分が奥のソファ席に突進する人の多いことといったら)。私はそこでアイスカフェラテを頼んでしまった。

今になって思えば、紅茶店でコーヒーを頼むなんて無粋だ。けれど、彼女はそんなことはおくびにも出さず、自分はアールグレイをミルクティーでと、物慣れた様子で注文した。

◎          ◎

それから授業で一緒になるたび、言葉を交わすようになった。彼女は家にもらいものの美術館の招待券があるからと、いろいろな美術館に誘ってくれ、そのあとお茶しておしゃべりした。彼女が話題にすることは、展覧会の感想や最近行ったカフェのことなどで、誰かの噂話とか、恋バナに進展する気配はなかった。今も昔も恋バナは女子の貨幣である。それを打ち明け合ってこそ本物の友人、という認識があった。けれど彼女は意図的にか無意識にか、そういう話題を極端に避けていた。

自分の失恋体験を話して、それとなく水を向けてみてもはぐらかされるだけだった。一度、彼女のうちに招待されたことがある。グランドピアノがあって、きれいな猫がいて、優しいご両親とお姉さんがいて、彼女は満ち足りてみえた。大学生になっても家族旅行するというのは私には恥ずかしいことだったが、彼女は家族と仲が良いことを隠そうとしなかった。こんな風に満たされていたら、恋愛に悩んだりしないのかな、と淋しくなった。

◎          ◎

そんな折、日本文学の講義で太宰治の小説について感想を書いてくるという課題が出た。文庫本を買うお金も惜しかった私に、彼女は先に読んで貸してくれた。私は、内面の鬱屈や自意識のねじれを正直に吐露した太宰文学に傾倒し、「どうしてこの作者は私のことをこんなに分かっているんだろう。この主人公は私だ!」と、太宰ファンにはありがちな感想に書いた。

教授は私の感想を教室で読み上げた。しかもわざわざ名前を挙げて。私の感想を読み終えると、教授は「これとは正反対の意見もありました」と、もうひとつの感想を読んだ。いわく、太宰は死にたい死にたい詐欺だ、うじうじしていてくだらない。

それを書いたのは彼女だった。私は思った。やっぱり彼女みたいに満たされている人には、太宰文学は必要ないし、この屈託は理解できないのだと。

私は彼女の目を二度と見られなかった。授業が終わるとそそくさと教室を後にした。大学を卒業した今なら分かる。どんなに優雅そうに見えたお嬢様の彼女にも、きっと彼女なりの悩みはあったはずだ。それなのに私は彼女への嫉妬から、お別れもお礼も言えなかった。