中学生時代のバレンタインの思い出が蘇る。
「この中で誰が好き?」
同級生が指す写真の中には男の子ばかりで、私も自然にその流れに加わろうと思ったものの、実際には恋愛対象としての興味は持てなかった。
思春期なら、異性が気になるのは当然なのだろうか。
◎ ◎
当時、中学生がスポーツに打ち込む姿を描いたアニメや漫画がブームになっていた。
私は、単純にストーリーの面白さや、キャラクターたちの頑張る姿に感動することはあった。
しかし、恋愛対象として登場人物を見ることはなかった。
けれど、クラスの女子達は、恋愛対象として見ていた。
男の子が多く出る作品では、自然に好きなキャラクターを選ぶことが期待されているのだろうか。
ストーリーを純粋に楽しんでいるだけでは好きと言ってはいけないのだろうか。
「この作品の中で誰が好き?」と問われるたびに、私は疑問を感じていた。
◎ ◎
男性キャラクターに夢中な女子たちに対し、私は、周囲の熱量に及ばず、違和感を感じることもあったが、仲間外れを避けるために自分を変えようと努力した。
けれど、努力すればするほど、私はその作品が嫌いになり、ストーリーを純粋に楽しめなくなっていた気がする。
周囲に合わせて無理に好きなフリをすることが辛くなっていった。
私は、その作品の中に出てくる誰かを、恋愛対象として好きにならないと、作品について語ってはいけないのかなと疑問に思う日々が続いた。
他の子と作品に対する熱量があまりにも違うため、好きって言っていいのかわからないときもあったが、好きと言わないことで仲間外れにされるのが怖かったから、流れに身を任せて好きと言っていた。
◎ ◎
今なら言える。
「私は特に好きなキャラクターはいなくて、単純にストーリーが好き」ということ。
だが、当時は言えなかった。
仲間外れにされないために、そんなに好きでもない作品のガチャや商品を買っていた。
その行動で、自分が変な子じゃない、あなた達の仲間だと主張していた。
私は、自分が本当に好きなものかどうかについて、自問自答を繰り返していた。
夢中になっている子達との熱量の差に戸惑い、孤独を感じることもあった。
一言でも違うと否定したら、一生仲間にいれてもらえないと思った。
それどころか、いじめられるのではないかと思った。
振り返るとむなしくなる。
交友を自分で狭めてはいけなかったと思う。
もし私と同じように周りに合わせていくことでしか、友達関係が構築できないという子がいるならば、危険だから注意喚起したい。
何が危険かというと、自分が心から好きなものがわからなくなることだ。
◎ ◎
もう一つ、私は気づいたことがある。
この世の中で、全人類、全員に好かれている人はいない。
みんなが好きな○○のことを、大ブームを巻き起こしている作品のことを、嫌いな私は、おかしい存在であると思っていた。
だけどそれは違った。
他人が好きでも、自分が嫌いであることは、 おかしいことではない。
パクチーは、とてもわかりやすい例だと思う。
嫌いな人もいるが、好きな人は、とても好きだ。だから、もし自分が置かれた環境で、自分の考えが少数派だったとしても、世界を見渡せば、自分と同じ気持ちや考えの人は絶対にいる。
もちろん、好きな趣味や嗜好が一緒なら良いに越したことはないが、もし、自分の好きなことが否定されても、世の中には、必ず自分と同じように好きな人がいる。逆も同じ。
自分の好みや考え方が他人と異なっていることは、 決して間違いではないし、悪いことではない。
◎ ◎
私が、それを知ったのは、SNSだった。
SNSを通じて、自分と同じような考えを持つ人々とのつながりをができ、それが私にとって非常に救いになった。
私は、SNSが自分と同じような考えを持つ人々とのつながりを提供してくれたことに感謝している。
もし、孤独で困っていることがあるならば、SNSで助けを求めることも選択肢の1つだと思う。
必ず自分と同じように悩みながらも生きている人がいる。
そして、自分の好きが変じゃないと気づかせてくれる。
リアリティのコミュニティじゃなくても、好きが一緒の友達ができたとき、 きっと人は強くなれると思う。
それに少ないクラスメートの考えよりも、SNSのほうが人口も多いから、いろいろな意見や感想が飛び交って、いい刺激になるときもあったりする。
そして、自分がいる学校、クラスがいかに偏っている考えのなかに存在しているのか知ることになる。
知るだけも、その知識は糧となり生きていく力になりうる。