私は5歳から15歳まで近所のお習字教室に通っていた。
ご高齢の夫婦で経営されている、こじんまりした所だった。
ご主人が子供達を指導して、奥様は教室の隅っこでのんびり字を書いたり、お月謝の計算をなさっていた。

そんな私が「さようなら」を言えなかった相手は、奥様。
子供達は「おばちゃん先生」と呼んでいた。

おばちゃん先生に伝えたいことを、ここに書きます。

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おばちゃん先生。
私、26歳になった今でもお習字をやっています。
字を書くのが大好きです。

高校でも大学でも、会社員になってからも、うつ病になって休職していた時も、人生の中でずっと字を書いていました。
今は、写真に撮った作品をSNSに投稿しています。お友達や知らない人が”いいね”を送ってくれたりして、嬉しいです。

字を書くと、あの教室の風景や、畳と墨汁の匂い、半紙の上でさらさらと滑る筆の音が心の中で蘇って、穏やかな気持ちになります。
なにより、おばちゃん先生の優しい笑顔を思い出して心がぽかぽかします。

ご主人のおじいちゃん先生は声が大きくて厳格な人だったのに対して、おばちゃん先生は物静かで控えめだったね。
もしかしたら、おばちゃん先生は自分に自信がなかったり、「私は夫の陰に隠れている」なんて思う日もあったかもしれない。

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そんなことはないよ。
おばちゃん先生の書く字は、おじいちゃん先生に劣らずとても綺麗だった。立派な先生だったよ。

私が小学校5年生の頃。
おじいちゃん先生が亡くなった時、おばちゃん先生が後任になると思っていたけれど、おじいちゃん先生のお弟子さんが後を継いだよね。
私は本当は「おばちゃん先生が良かったな」と思ってたんだよ。

だって、おばちゃん先生のおかげなんです。
人見知りで気の弱い私に、先生がいつも優しく優しく「上手やね」「頑張ってるね」と声をかけてくれたから自信がついて、字を書くことが好きになったんです。
おばちゃん先生があの教室の隅っこに座って微笑んでいてくれたから、学校帰りでくたくたに疲れていた日も、母に怒られて心がしぼんだ日も、がんばって通えたんです。

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おばちゃん先生に会うために通ってたんです。

それが言いたかった。

子供の頃からずっと言いたかったのに、恥ずかしくて言えなかった。言うチャンスはいくつもあったはずなのに。

賞状を獲って褒めて貰えた時。
居残りした日にこっそりお菓子をくれた時。
教室で隣に座った時。

教室に通う最後の日も、15歳の私は小さな声で俯いて「10年間ありがとうございました」しか言えなかった。
あの時のおばちゃん先生、「あっ、もう行っちゃうの…?」と言いたげに、口が少し空いていた。 

目が少し寂しそうだった。
私はその表情に気づいていたけど、ぷいっと教室を出てしまった。
もっと言いたいことがあったけど、立ち止まる勇気がなくて、そこでお別れしてしまった。

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ごめんね。
おばちゃん先生、私をずっと可愛がってくれていたのに。

この気持ちを言えないまま、貴方は亡くなってしまった。

私が高校生の時。
おばちゃん先生が亡くなったって母から聞かされて、こっそりお風呂で泣いたんだよ。

ずっと言いたかったよ。
でも私が臆病なせいで言えなかった。

「ああ、心残りってこういう事をいうのか」と思った。
大きな大きな悲しみと後悔がお腹の中にズドンと落ちてきた。
臆病で勇気のない自分を恨めしく思った。
もしタイムマシンがあったら最後に会った日に戻って、駆け寄ってハグをしたい。

次におばちゃん先生にお礼を言えるのは、私が天国にいった時。ずっとずっと先だ。あまりにも遠すぎる。

だから、ひとまず今、言っておきます。
「ありがとう」「だいすき」。

天国で会えたら、ちゃんとおばちゃん先生のお顔を見て言うからね。
もうちょっと待っててね。