小4の春休み、受験のために塾へ通い出した。もちろん自分の意思ではなく、親に言われるがままにだ。地元の中学にあがるとか、受験するとか、とにかく私は何も考えていなくて、ただただ小学校生活の毎日が楽しかった。将来の夢は一応あったけど、そんなの遠い先のことにしか思っていなくて、進路を考えるという頭がそもそもなかった。

そんな時、突然親に塾の体験授業に連れられた。それが小4から小5にあがる春休みのときだった。今まで習い事はたくさんしてきたし、この塾それの一環のような感じで捉えており、これから苦しい受験戦争が待っているなんて全く考えていなかった。

進学塾で味わう初めての苦痛と受験家系に生まれた運命

塾に入ってからは小学校では習わないような、いわゆる“お受験対策”の授業がなされた。
今まで学校のテストは100点以外あり得なかった私は、塾の授業に全くついていけなかった。そして、学校の宿題と並行して膨大な量の塾の宿題。当然、内容も理解できず、宿題を終えるのも一苦労。そしてまた朝がやってきて学校に行き、その後すぐに塾へ行く。夜遅く帰宅して学校や塾の宿題をこなす。そんな地獄のような日々が小5の春から始まった。

毎日塾が辛くて仕方がなかったが、私の家系はみんな中学受験をしており、その時は嫌だと思っていても、うちに生まれたからには受験は必須なんだと考えていた。逃げ出したい気持ちもあったけど、当たり前だという気持ちのほうが強く、今思えば親に洗脳されていたのかもしれない。

そして小6にあがり、塾でクラス分け制度が始まった。私は出来が悪かったので、もちろん一番下のクラス。目指す志望校も偏差値はそんなに高くない。でもとにかく受験して親が望む学校に入れば事が丸く収まるんだろうなあと思い、塾に行きたくないなどと、ごねたりはしなかった。

なんだかんだ新生活が始まるのを楽しみにしていた私

そして迎えた合格発表の日。私は親が望む志望校に合格した。よく分からなかったけど、親が泣いて喜んでいたので、私も嬉しかった。そして春から地元から少し離れた女子中に通うことになった。

なんだかんだ親に流されてここまで来たけど、中学生になる楽しみと、合格した達成感と、女子校という新しい環境に内心ワクワクしていた。そして迎えた入学式の日、私に悲劇が起こる。新入生全員で入学式を終え、それぞれのコースがある教室に入っていく。担任の先生が挨拶をする。笑顔で迎えてくれている。私はこの学校に来て良かった、受験を頑張って良かったと思った。そして、先生が「今から一人一人前へ出て自己紹介をしてもらいます。名前と呼んでほしいあだ名を言ってくださいね。」と優しく言った。

突然始まる地獄

前の人から順に自己紹介をしていき、ついに私の番になった。私は前の方へ出て、名前とあだ名を少し緊張しながら言った。みんなが笑顔で拍手をしてくれた。私はホッとして席についた。そしてクラス全員の自己紹介が終わり、次は班で役割決めをすることになった。班は名簿順で席が近い者同士で組むことになっており、机をみんなで向かい合わせた。そしていざ、役割決めの話し合いが始まろうとした時に、一人の一軍女子のような子が、「あの子なんか目障りだからハブろう」と小声で笑った。

他の子はまだ会話もしていない私たちに向かって向けられたその言葉にきょとんとしていたが、女子特有の察知能力で、“この子に従わないとやばいかも”という空気が流れ、みんな、遠慮がちそうに私を無視しはじめた。

その日から私は3年間、このクラス替えのない環境でいじめにあうことになる。中にはいじめっこの目を盗んで、「いつもごめんね…」と謝ってくれる子もいたが、行動で示してくれる子は一人もいなかった。

現実を受け入れ、強くのし上がっていく

私は毎日が地獄で仕方なかった。親に相談しようかと迷ったときもあったが、合格発表で泣いてくれたときのことを思い出すと、言えなかった。こうして私は陰湿ないじめに耐え続けることになり、とうとう中3の冬、卒業を目前に倒れてしまった。

そして、親に事情を話さざるを得なくなったのだ。親は「なんでもっと早く言ってくれなかったの」と泣き崩れた。私はそれから精神科に通院する日々が始まった。

15歳で初めて病院へ行き、29歳の現在も精神科に罹り続けている。私はこの辛い過去や、薬を毎日飲み続けなければならない現実にうんざりしている。

もし、もう一度小5の春に戻れるなら、いじめられることが分かっていたのなら、私は受験をしない選択をしたい。でも、現実はそうはいかないので、それもすべて背負った上で自分がそこから這い上がり、経験から活かせる術でこれからも強く生きていくしかない。この経験を、私は絶対”勝ち”に変えてやりたいと思う。